富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの復活」

2015-04-04 18:20:34 | 聖書

              ↑   十字架の道   聖書大百科

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

    日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

        復活節第1主日(復活日)  2015年4月5日(日)    5時~5時50分 

           礼   拝    

前 奏                  奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  517( 神の民よ)

交読詩編     118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音24章1~12節       

説 教    「キリストの復活」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 327( すべての民よ、よろこべ)

聖餐式     72(まごころもて)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                            次週礼拝 4月12日(日) 午後5時~5時50分 

                            聖 書  ルカによる福音書24章36~43節

                            説 教    「復活顕現」

                            讃美歌   204 57 24 

 お報せ イースター茶会は、425日(土)に開催いたします。10時からの部と、12時からの部とになります。濃茶席と薄茶席があります。正午の時間は礼拝とマンドリンのミニ演奏があり、松花堂弁当がつきます。会費は3000円です。参加希望の方は申込み下さい。  

本日の聖書 ルカによる福音書24章1~12節

 1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

    本日の説教

  今日の聖書に書いてある出来事を理解するためには、イエスの十字架の処刑から知る必要があります。ナザレ出身のイエスは腐敗したエルサレム神殿の在り方やユダヤ教の指導者達を批判したため、捕えられ、ユダヤ人による最高法院の裁判で、「お前はメシアか、神の子か」と問われ、罪名は神を汚したとして冒涜(ぼうとく)罪(ざい)(涜(とく)神(しん)罪(ざい))とされ、死刑する権限のないユダヤ人指導者たちは、ローマに対して民衆を惑わす反乱罪で、ローマ総督ピラトに告発しました。ピラトはイエスに「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問したが、犯罪に当たることは何もしていないことが分かり、釈放しようとしました。しかし、祭司長たちと民衆は一斉に、犯罪人バラバを釈放し、イエスを殺せ、十字架につけろと叫び続けたのです。ピラトは彼らの要求を受け入れたのです。イエスの罪状書きは、「INRI」(ラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語で 「イエズス ナザレヌス レックス ユディオルム(ユダェオルム) 」)と読みます。)「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の意味です。金曜日の午前9時に十字架につけられ、午後3時に十字架上で死にました。

  十字架で処刑されたイエスの遺体を、引き取ったのは、当時のユダヤの宗教議会の議員だったアリマタヤのヨセフと言う人でした。彼は危険を恐れずピラトに申し出て、イエスの遺体を引き取り、自分の家の墓に葬りました。日没から労働が禁止される安息日が始まるので、大急ぎで埋葬がなされました。
 「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(23・55~56節)。

  その埋葬を見届けたのが、「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」でした。<家に帰って、香料と香油を準備した>のは、安息日が始まる前でした(マルコ福音書には、安息日が終わった土曜日の日没後に準備した(16・1)、とあります)。

  「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」

  「週の初めの日」、すなわち日曜日の朝早く、日が昇る前のまだあたりが暗い時刻に、婦人たちはイエスの墓に行きました。金曜日の日没前に墓に葬られてから<三日目>のことです。彼女らは、愛する主イエスが十字架につけられて殺されてしまったという悲しみ、嘆き、絶望の中で安息日を過ごしました。準備した香料(を混ぜた香油)は、大急ぎで埋葬された遺体に、防腐剤として塗るためか、あるいは、遺体を香料で清めて葬るためでした。

  「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」

  彼女たちはイエスを慕う一心で墓に向かったのです。イエスの遺体に香料を塗るには、墓の入り口を塞いでいる石を取り除かなければなりません。彼女たちでは動かすことができないほど大きな石が、いがいにも、すでに脇にころがしてありました。イエスの遺体を納めた「墓」は横穴の洞窟でした。婦人たちがその中に入ったが、主イエスの遺体は見当たりませんでした。

 「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。」

  せめて主イエスの遺体に香料や香油を塗って丁重に葬りたい、そのことだけを慰めに、やって来たのに、主イエスのお体が見つかりません。それは彼女たちにとって、絶望の上にさらに絶望を味わう出来事でした。そのため途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人(天使)がそばに現れました。婦人たちは墓の中でこのような聖なる天使の顕現に接して、恐れて顔を伏せました。すると二人は言いました。

  「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

  主イエスの復活が彼女らに告げられました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と、墓でイエスを捜す愚かさを婦人たちはとがめられました。「今生きておられる方」を、既に死んでしまっている者の中に捜すのか。主イエスは、死者を埋葬する墓の中にはおられない、だから墓をいくら捜しても主イエスを見つけることはできない、なぜなら主イエスは復活して、今生きておられるからだ、そう天使は告げたのです。これは、主イエスの復活を告げる喜ばしい知らせです。天使の言葉は、十字架につけられた者が甦ったという、人間の理解をはるかに超える出来事を告げたのです。

 「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 イエスはガリラヤでお話しになった中で、メシアとしての御自分の受難と死、そして復活とを予告されていました。主イエスは既に三度にわたって、ご自分が長老、祭司長、律法学者たちによって捕えられ、殺され、三日目に復活することを予告しましたが、「ガリラヤにおられたころ」は二度も予告がなされました(9章)。天使はイエスの受難と死と復活は神の計画に基ずくものであることを、彼女たちに思い出させようとしました。

 「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。」

 彼女らは天使の言葉によって、主イエスがご自分の死と復活を予告しておられたことを思い出したのです。しかし、まだ復活された主と出会ってはいません。複雑な心境であったと思われます。そして、墓から帰って、十一人の使徒たちと他の人たち皆に、墓で起こった一部始終を知らせました。

  「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。」

 彼女らは、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たち」で、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラ出身のマリアヘロデ王の家令クザの妻ヨハナ、それにヤコブの母マリアたちでした。主イエスがガリラヤで宣べ伝えておられた頃から従っており、主イエスと弟子たちの一行に、自分の持ち物を出し合って奉仕して、エルサレムにまで来たのです。彼女たちは、イエスの十字架の死を目撃し、イエスの遺体が納められた墓を見届けた婦人たちでした。

 「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」

 婦人たちは墓が空であったことや、天使から伝えられたイエスの復活を、使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思ったので、婦人たちの言うことを取り合わず、信じませんでした。

  <たわ言>とは、ばかばかしい話、ふざけた話のことです。パウロがギリシャのアテネでキリストの死者の中からの復活を語ったとき、それを聞いた人たちは、<ある者はあざ笑い、ある者はそれについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう」(使徒言行録17・32)と言って、聞くことを拒否しました。復活を信じるということはとても難しいことです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。(コリント一、2・14)」「聖霊によらなければ、だれも『イエスは(復活された)主である』とは言えないのです。」(コリント一、12・3)

  「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」

  しかし、ペトロだけは、「主イエスは生きておられる」という天使のお告げを婦人たちから聞き、主イエスが語っておられた受難と復活の予告の言葉を思い出しました。また、最後の晩餐の席で、「シモン、シモン(ペトロの実名)、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われた主イエスの言葉を思い出したのでしょう。ペトロは心を揺り動かされ、その事実を確かめるために、立ち上がって墓へ走りました。見をかがめて墓の中の様子を観察すると、イエスの遺体に巻いた亜麻布しかなかったので、この不思議な出来事に驚き、家に帰っていきました。このときはまだ甦った主に出会っていません。ペトロと主イエスの出会いは記されていませんが、「最も大切なこととしてあなたがたに伝えたのは…キリストは聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人(弟子)に現れたことです。」(コリント一、15・3b~5)とあるように、主は弟子たちの中で、最初にペトロに会われたのです。

  墓を空にして復活されたイエスは、この日、弟子たちに現れて、直接ご自分が生きておられることを示されました。イエスはエルサレムからエマオの村に向かって歩く二人の弟子に現れました。エルサレムでも、本当に主は復活して、シモン・ペトロに現れたことが、十一人とその仲間の間で話題になっていたとき、イエス御自身が彼らに現れました。

 弟子たちが復活の主と出会えたのは、神であるキリストの側からの働きかけによるものであり、決して弟子たちの自然的な認識能力によるものではありませんでした。使徒パウロの場合も、最初はイエスの復活を信じることが出来ず、むしろ神の教会を迫害していました。しかし、甦られ、天に昇られたイエスがパウロに現れたことにより、パウロはイエスの復活の証人となり、使徒となって福音を宣教しました。

 主イエスの甦りは、自分に現れて下さった主イエスご自身によって納得させられ、信じる者となるのです。弟子たちが命がけでイエスを、復活されたキリストとを宣べ伝えたのは、彼らが復活のイエスとの人格的、霊的出会いを体験したからです。復活の信仰は、神が聖霊によって私達の心を開いてくださり、与えてくださるのものです。 

  平安時代、弘法大師空海(774~835年)が修行の場として開いた和歌山県にある真言宗の高野山は、今年開創1200年になります。空海が生涯を閉じた後も、空海は生身(なまみ)をとどめ衆生(しゅじょう)を見守っていると信じられています。空海は「死んでしまったのではなく、今も高野山で生きて禅定(ぜんじょう)を続けている」とされているため、毎日かかさず、食事を朝の6時と10時半の2回、弘法大師廟(びょう)(遺体が安置された所)へ供え続けています。この廟のある奥の院には、戦国大名の6割の墓があります。信長、秀吉、家康、伊達政宗などの墓があります。今日では、トヨタ、パナソニック、ソニー、等々の有名企業の会社の墓があります。奥の院は世界遺産に登録されました。高野山に墓地を持つことを望むのは、死後も空海に見守られ、生き続けたいと願う人間の心理があるから、ではないかと思わわれます。

  空海は「死んでしまったのではなく、今も生きている」と信じられているのですが、死から復活したのではなく、死んだ後も、空海の霊が生きていて、自分たちのために執り成してくださる、という思いが信仰者あるからです。食事を備えても、霊の空海が食べるわけではありません。食事供える側の気持ちが、空海を生きてるいる方として信じて、食事を備えているのです。諸宗教では、このような神仏への供えがなされています。

  キリスト教の信仰は、死んだあとも霊だけが生きているという霊魂不滅の思想を受け入れません。霊あるいは魂といったようなものが、生まれるときに体に入って、死ぬときに神に帰るような、人間の命の不滅の要素が存在するとは考えません。聖書では「霊」はけっして、体や心のように生まれながらの人間に自然に含まれている一部分ではありません。それは神から与えられる特別の賜物です。霊は本来人間に属するものではなく、神に属するものです。永遠の生命は体を備えた姿で現れなければなりません。聖書が告げる復活は、自然の命の体から霊の命の体に復活するのです。

  イエスの復活の意味について述べましょう。

1. イエスの十字架の死は、私たちの罪のあがないのための死でした。私たちが自分の罪のために支払わなければならない値は、死でした。イエスの復活は、罪に対する刑罰であり、最後の敵である死にも勝利したことによって、救いの約束が確実なものであることを保証しました。

2. 私たちは、イエスを信じるときに、聖霊を受け、罪の支配から解放され、永遠の命に生きる者とされました。

3. イエスの復活によって、私たちも復活を与えられ、愛する者と共に天国で再会する希望を与えられました。キリストの復活は、あの忌まわしい自然の死と恐るべき審判の死とに打ち勝つ道を与えました。キリストの復活を信じる者は死を恐れません。死が最後ではありません。死は復活の栄光に至るたもの通過点にすぎないからです。

4. さらに復活の事実は、イエス・キリストが真の神であることを示しています。イエスは復活して天にあげられ、父なる神と共に世を支配している生ける神の御子です。私たちの人生はキリストに導かれ、守られ、キリストと共に歩むことの出来るすばらしい人生にされているのです。

   復活された主に栄光あれ。天上の主に栄光あれ。ハレルヤ!

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