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日本キリスト教 富谷教会 週報
年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』
聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 (フィリピ4:6)
復活節第6主日 2015年5月10日(日)
仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝 2時40分~13時20分
礼 拝
司会 櫻井 秀美兄
前 奏 奏楽 松本 芳哉兄
讃美歌(21) 521( とらえたまえ、われらを)
交読詩編 86(主よ、わたしに耳を傾け)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節
説 教 「聖霊に導かれる信仰生活」 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)
献 金
感謝祈祷 武石 晃正兄
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷 辺見宗邦牧師
後 奏
本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節
16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
◎ 礼拝後、食事の時間、茶室での呈茶、懇談があります。
次週礼拝 5月17日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 マタイによる福音書28章16~20節
説 教 「キリストの昇天」
讃美歌(21) 287、327、24
本日の説教 「聖霊に導かれる信仰生活」
キリスト教の救いとは、分かりやすく言うと、私たちが神の恵みのもとで罪から解放され、心の健康を回復し、神の前にまったき平安を得ることに他なりません。キリスト教の救いとは、この世の困難からの救い、この世の平穏・無事が主なのではありません。その根本的な救いとは、罪の奴隷であり、悪魔の支配下におり、死ぬ以外に道のない人間を、神があわれんで、罪から解放させ、神の支配下へ脱出させ、完全に自由にし、永遠の命を与える、これが真の救いなのです。
キリスト教徒は、イエスはキリスト(救い主)であり、私たちの罪のために十字架につけられ、贖いの死を成し遂げられ、私たちが新しい命に生きることができるように、死者の中からの復活によって神の子と定められたキリストを信じるのです。
パウロは、キリストの十字架の死を、罪を償う供え物となった贖いの業として記しているところもありますが(ローマ3・24)、主に、罪の支配力からの解放として語っています。キリストの出来事は、昔イスラエルがエジプトの支配から解放されたことの終末的な成就なのです。
キリストの十字架の死と復活を信じ、天上にあって父なる神と共に、わたしたちのために執り成してくださっているキリストを信じ、その告白として水の洗礼(バプテスマ)を受け、教会の一員となります。洗礼によって、私たちはキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです(ローマ6・4)。キリストを救い主として信じたとき、神の御霊によって、人はキリストにつなぎ合わされます。キリストを信じた時、人の中に聖霊が宿り、聖霊が人の心の中に住みはじめます。こうして人は新しく生まれるのです。
ガラテヤの教会の人たちが聖霊を受けたのは、律法を行ったからではなく、福音を聞いて信じたからでした。ところが、ふたたび、いろいろな律法の規定を守り、割礼を受けることを勧める人たちが出てきたのです。彼らが他の人たちに対して熱心なのは善意からではなく、自分たちに対して熱心にならせようとして、割礼を述べ伝えているのです。彼らは自分をひとかどの者だとうぬぼれて、誇っているのです。人からよく思われたがっている人たちです。彼らは肉について誇りたい人たちです。そこから、教会内で、愛によって互いに仕えるのではなく、うぬぼれたり、人を裁いたり、ねたみ合ったりする対立や生じたのです。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(5・16)
「わたしが言いたいのは」と言って、5章の13~15節で語ったことを、改めて説明します。キリスト者にとって、律法から解放され、与えられた「自由」を正しく行使し、「隣人愛の奉仕」に努めることは、取りも直さず、「聖霊」の導きに従って生活することにほかならない、とパウロは主張しているのです。「霊の導きに従って歩みなさい」とは、人間が「肉」すなわち、自己中心主義に生きる自分の支配を脱して、神中心主義の自分として生きるように、ということです。それはまた、究極的には聖霊の指導の下に生活することです。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるこようなことはありません。
「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」(5・17)
肉と霊の対立ということが書かれています。「肉」とは「肉体」のことではありません。この「肉」とは、人間として共通に持っている罪に傾く人間の性質を指しています。だれもが、この罪に傾く性質を持っています。私たちはそれなりに正しくあろうとする意志を持っているわけです。私たちは自分の意志の力をもってある程度、肉を押さえ込んでいるわけです。
ここで言われている「霊」とは、人間の霊のことではなく、神の霊、聖霊のことです。肉と霊とが対立し合っているので、私たちの内には葛藤が生じます。それまで肉に従って喜んで行っていたことが苦しみとなり、悲しみとなってまいります。肉は支配力を失い、肉の望むところに反する聖霊が支配するようになるのです。パウロは神の霊を受けてはじめて、律法を欠けるところなく行おうとしている自分の人間本性がいかに深く神に反するものであるかを認識したのです。
「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」(5・18)
信仰により義とされ、霊に導かれているなら、律法から自由にされています。御霊によって歩むときには、律法が求めるところの、すなわち隣人を愛する力が内にあるので、外からの規則で縛る必要はなくなるのです。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(5・21,22)
パウロは肉の現れを具体的に描きます。最初の姦淫、わいせつ、好色の三つは、性的放縦です。性的欲求を満たすこと自体は罪ではありませんが、自己追及の本性によって、相手の立場や尊厳を無視することになると、御霊に反する肉の業になります。次の偶像礼拝は、人間を超える神々の力を自分の利益のために利用することであり、、魔術も霊的な能力を自分の都合の良いようにコントロールして利用することであり、どちらも、その宗教的行為は、人間本性に巣くう悪の業です。また、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみは、一般的な内面的な心の在り方が取り上げられています。そのような心の姿は、聖霊に反する卑しいもの、心から駆逐すべきものです。最後の泥酔、酒宴は、アルコール類を口にすること自体が禁じられているのではなく、飲食の欲望に身を委ねる放縦が非難されているのです。その他このたぐいのものとありますが、金銭欲等が挙げられます。
「以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(5・21)
このような肉の働きに身を委ねるような生活をする者は神の国に入るようなことはありません。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(5・22,23)
特に、肉については「肉の業」と言われていたのに対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られています。実は私たちが作るべきものではなくて、《実る》ものです。喜び、以下、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の八つの項目は、愛が展開したものと見て良いと思います。私たちはこのような愛、このような良きものを備えた人となるようにと召されているということなのです。
「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(5・24,25)
私たちは主イエス・キリストに救われました。神の子とされました。子は父の愛の中で育まれ、父が喜ぶこと、望むことを行おうとするのです。それが、霊の導きに従うということなのです。何故なら、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」とあるとおり、古き私は既に十字架の上で死んだからです。もちろん、時には自分の思いや自分の欲に引きずられることもあるでしょう。しかし私たちは、その一つ一つのステージを乗り越えていって、少しずつ少しずつキリストに似た者へと造り変えられ続けていく、そういう営みの中を歩む者とされているのです。
「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(5・26)
他のクリスチャンと自分を比べて虚栄に走ると、優越感を持って他の人に挑みかかるか、劣等感を抱いて他の人々をそねむかのどちらかとなります。うぬぼれ、ねたみは肉の働きによるものです。それらを十字架につけて葬り去り、聖霊の導きに従って歩みましょう。私たちはみなそれぞれが達しているところを基準として進むべきです。また、愛をもって互いに受け入れ合い、仕え合う者とならなければなりません。パウロは教会に見られる危険について、ガラテヤの信者たちに具体的な勧告をしたのです。
キリスト者は聖霊の導かれる信仰生活をすると、御霊の実を結び始めます。これが聖化というものです。人それぞれ、その成長速度は違い、何度も失敗しているかもしれませんが、真のキリスト教徒は、必ず御霊によって成長して行くのです。霊の導きに従って、みんなで前進しましょう。そしてキリストの体である教会を一層堅固なものとし、世の光、地の塩としての使命を果たし、父・子・聖霊の神の栄光をほめたたえましょう。
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