富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

わたしは命のパンである

2015-04-26 20:07:11 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 (フィリピ4:6)

 復活節第4主日   2015年4月26日(日) 5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏                  奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   56( 主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編      24(地とそこに満ちるもの)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ヨハネによる福音6章34~40節       

説 教    「わたしは命のパンである」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  411(うたがい迷いの)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏 

                           次週礼拝 5月3日(日) 午後5時~5時50分 

                           聖 書  ヨハネによる福音書15章12~17節

                           説 教    「互いに愛し合いんさい」  

                           讃美歌   475  529  24   

     ヨハネによる福音書6章34~51節

 34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

本日の説教

  ヨハネによる福音書の6章全体が一つの主題についての記しています。その主題は命のパンの与え手であり、また同時に命のパンそのもであるイエスを明らかにすることにあります。

  6章の始めに書かれているのは、「五千人に食べ物を与えた」、供食(きょうしょく)の記事です。イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖に向こう岸で、イエスの後を追ってきた五千人ほどの群衆に食べ物を与えらえました。人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ世に来られた預言者である」と言いました。しかし、神の子とは認めていません。この供食の記事では初代教会の聖餐式で使われた言葉遣いが用いられており、パン裂きの出来事がイエスの十字架の死・贖罪と結びつけられるべきであることを表しています。  夕方、弟子たちは舟に乗ってカファルナウムに行こうとしました。その途中、強風で湖が荒れ始めたとき、イエスが湖の上を歩いて舟に近付いて来られのを見て、弟子たちは恐れました。イエスは、「わたしだ。恐れることはない」と言われました。間もなく舟は目指すカファルナウムに着きました。ここではイエス御自身が神と等しい、あるいは自分は神であるという形で自己を顕現しています。

 その翌日、五千人に供食した地に残っていた群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、ちょうどティベリアスからやって来た数そうの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来ました。そしてイエスを見つけると、「ラビ(ユダヤ教の宗教的指導者や学者を指す呼び名)、いつ、ここにおいでになったのですか。と言いました。

 イエスは答えて、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満足したからだ。朽ちる食べ物のためではく、いつまでのなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われました。

 そこで人々は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて、「神がお遣わしなった者を信じること、それが神の業である」と言われました。

 彼らは、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野で天からのパン、マンナを食べました」と言いました。

 群衆はシナイ半島の荒野で先祖が与えれたマンナのようなしるしを求めて、もしそれが与えらえるならば、昔の人がモーセを神の人と信じたように、キリストを神の子と信じようというのです。

 するとイエスは、「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と言われました。これはモーセが与えられたパンを指すだけでなく、これからイエスに起ころうとしていることが示されています。<世に命を与えるもの>と言われています。この世はイエスを拒む勢力の代表者ですが、ここでは神の目的はこの世に命を与えることであり、世は救いの対象としてとらえられています。

 ここからが、今日の聖書の個所に入ります。

 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに与えてください」と言いました。<パン>は、人間の生命を支え養うのに必要なもののすべてを表します。しかし、群衆はこれを「肉のパン」と言う意味に受けてっています。イエスは、この言葉にもっと深い意味をこめて語っています。それは<命のパン>と表現されています。ここではパンは明らかに、この世の物質以上のもの、一人の人格をとってこの世にあらわれた生命であることが示されています。群衆は<命のパン>とは肉の生命を支えるための肉のパンと思い込んで、どこまでもそれをイエスの求めています。

 イエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」

 イエスは言われます。<わたしが命のパンである。>わたしは荒野のマンナと違って、わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は永遠に渇くことがない。わたしこそ神の、まことの、命のパンである、と明らかにされたのです。

  本当の生命の養いは、一人の<人格>であるイエスの中にこそ求めるべきだというのが、この解答です。物質としての糧は、やがてすぐなくなるばかりでなく、飢えや渇きがいやされたとしても、それは一時的な充足にしか過ぎません。しかし、永遠に生き給う神の子との愛の交わりは、永遠的生の充足をわたしたちに与えます。これがイエスが約束する永遠の生命です。

  この群衆はすでにパンの奇跡において、ある決定的事件を目撃したのです。ところが彼らは、それが何を意味するかを見通すことができなかったのです。信仰の目には見えたはずのイエスの神の子としての栄光が、彼らの眼にはかくされていたのです。

  イエスの許に導かれ、彼をキリストと信じるということは、父なる神のお与えになるものであり、神の恩恵による小野田、と述べています。

 <わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない>とあります。イエスのもとに来る者が、信仰告白へと導かれ、救いに至ることを、イエスは保障しています。

  ここでは<上から>という代わりに<わたしが天から降ってきた>とはっきり言われています。天は神のおられる領域なので、<わたし(イエス)は神から来た>ということを表しています。

 イエスの神的権威は、どこにあるのでしょうか。それは、父の御心に従うことしかできないイエスの神への従順さにありました。イエスの死は、信じるすべての人に復活の生命を与えるための犠牲でした。<永遠の生命>とは、死を乗り越える「復活の生命」でした。これを約束し、与えることができる者は、もはや単なる人間ではあり得ません。神のなさることです。

 「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだかである。」

 <終わりの日>は未来的なことですが、現在的なことでもあります。つまり永遠の命は歴史の終末の時に与えられるものではありますが、<子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり>とあるように、イエスの言葉を聞く時に与えられることが明らかにされています。

 ここでの重要な点は、イエスはモーセのようにただ神から与えられるパンを民に分け与えるだけではなく、命のパンそのもであるという点です。モーセはあくまでも人間であり、預言者に過ぎません。イエスは神と等しい者であり、神であるということです。その命に与ること以外に終末の復活にあずかることはないと宣言されています。

 41節からは、群衆がユダヤ人たちになります。ユダヤ人たちが登場すると、むしろイエスに対する批判的な、敵意が明らかになり、反抗が明らかになっていきます。ここでの主題は命のパンそのものであるイエスです。

 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは、天から降ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始めました。これはヨセフの息子のイエスではないか。ヨセフとマリアから生まれた子が、どうして今「天から降ってきた」などというのか。神への冒涜ではないか、とつぶやいたのです。

 イエスは答えて、「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきる言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、わたしは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のこである」と言われました。ここではイエスが命のパンとして、十字架の贖罪によって人々に永遠の命を与えるということが言われています。

 イエス様というパンを食べた人、すなわち、イエス様を信じた人は、神との豊かな交わりで霊的に満たされ、潤されますので、霊的に飢えたり、渇いたりすることがありません。「命」は、神との交わりで人を生かす霊的命のことです。生まれたときからの自然的意味での命ではなくて、神に造られた人間として、神との交わりの中で、与えられる聖霊です。「命のパン」とは、神との交わりで与えられる、人を生かし養う霊的な命を表しますが、具体的には、霊的命が無限に充満している神の子イエス・キリストを表しています。

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