富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ぶどう園と農夫のたとえ」 

2015-03-22 16:15:10 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

          日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 受難節第5主日        2015年3月22日(日)      5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  152(みめぐみふかき主に)

交読詩編     118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書20章9~19節       

説 教    「ぶどう園と農夫のたとえ」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 411(うたがい迷いの )

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                           次週礼拝 3月22日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                                              聖 書  ルカによる福音書22章39~53節

                                              説 教    「ゲッセマネの祈り」

                        讃美歌     521、302

本日の聖書 ルカによる福音書20章9~19節

9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。 12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』 18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

           本日の説教

 ルカによる福音書19章37節から、エルサレムでの主イエスの最後の一週間が始まります。オリーブ山のふもとにあるベタニヤから主イエスはろばの子に乗って柔和な威厳をもって、聖なる都エルサレムへ行きました。多くの人が葉の付いた枝を道に敷いて、「ホサナ。主の名によって来られた方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」叫んでイエスを迎えました。この日は棕櫚(しゅろ)の日曜日と呼ばれるようになります。こうしてイエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺(あた)りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人の弟子を連れてベタニヤへ出て行かれました。

 翌日、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々に、「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。」(イザヤ書56・7)と書いてある。』ところがあなたたちはそれを強盗の巣にした」と言って、神殿をきよめ、彼らを追い出しました。祭司長、律法学者たちは、これを聞いてイエスをどのようにして殺そうと謀かりました。群衆が皆、イエスの話に感動して聞き入っていたので、彼らは手を出すことは出来ませんでした。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれました。

翌日イエスの一行はエルサレムに来て、神殿の境内でイエスは民衆に教えていました。すると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、「何の権威でこのような言動をしているのか。だれがその権威を与えたのか。」とイエスに問いただしました。イエスは、彼らが受け入れなかった洗礼のヨハネについて彼らに、「ヨハネの洗礼は<天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」と問い返しました。彼らは相談しました。「<天からのものだ>と言えば、ではなぜヨハネを信じなかったのか」と言われるし、<人からのものだ>と言えば、ヨハネを預言者だと信じ込んでいる民衆に石打ちで殺されてしまう。」そこで彼らは、<どこからか、分からない。>と答えました。するとイエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われました。イエスは自分はメシア(救世主)で、その権威は神からであるとはっきり言いませんでした。言っても彼らは理解しなかったからです。

このようなユダヤの支配者たちの前で、イエスは民衆に、なかばたとえであり、なかば寓話(ぐうわ)である、「ぶどう園と農夫」の物語を話し始めました。たとえではイエスは自分は神からこの世に送られたメシアであることを伝えます。しかもそのメシアの受難と死を予告します。

ある人がぶどう園を作り、それを整え、農夫の小作人たちに貸して長い旅に出ました。収穫期に、農民たちは、小作料として収穫の一部を主人に支払わなければならない契約をかわしました。それで、収穫の季節になった時、ぶどう園の主人は、小作料を納めさせるために、ひとりの僕(しもべ)を送りました。しかし、農民たちは不在地主が送ったこの僕を殴打(おうだ)して、何も持たせないで追い返しました。主人は第二の僕を送ったけれど、農夫たちは殴打し、侮辱して何もまたせないで追い返しました。第三の僕に対しても傷を負わせてほうり出しました。

そこでぶどう園の主人は、大胆な考えを思いつきました。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならばたぶん敬ってくれるだろう。」と主人はひとりごとを言いました。しかし農民たちは、ぶどう園の主人が想像するよりも悪い人たちでした。彼らは互いに論じ合いました。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」そこで彼らは息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまいました。

イエスは、「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに貸し与えるちがいない。」と、この物語を結んで言われました。

このたとえ話しを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言いました。人々が「そんなことがあってはならない」と感じたのは、農夫たちが主人の僕を袋だたきにし、愛する息子を殺してしまったことです。自分たちにぶどう園を貸してくれ、生計を立てることができるようにしてくれた主人に対して、こんな恩を仇で返すようなことをするなんてとんでもないことだ、と人々は思ったのです。そんなことをすれば、当然農夫たちは主人に殺されてしまう結果になると民衆は思ったのです。

このたとえの始めの描写や用語は、イザヤ書5・1~7の<ぶどう畑の歌>を引用したものです。

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃(ひよく)な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ。わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨(いばら)やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(きょうかん)(ツェアカ)。[叫喚(きょうかん)=大声でわめき叫ぶ]

預言者は歌います。そこではぶどう畑を持っていた所有者は万軍の主である神です。ぶどう畑は<イスラエル>です。主なる神は良いぶどうではなく酸っぱいぶどうを実のらせたぶどう畑を<焼かれるにまかせ、……踏み荒らされるにまかせます。

<ぶどう畑の歌>で、預言者は、良い実を結ばない、神の期待にこたえないイスラエルを神の厳(きび)しい審(さば)きに値する神のぶどう園にたとえています。

ルカ福音書のたとえでも、ぶどう園の主人は神を指しています。ぶどう園を借りた農夫はイスラエルの宗教的指導者たちを指し、収穫の時に主人が遣わした僕は預言者たちを指しています。ユダヤ人は神に叛逆し、神から遣わされた預言者たちを侮辱したり、迫害したりします。

主人が最後の手段として送った息子は、明らかにメシアであるイエスを指しています。息子を殺せばぶどう園は自分たちのものになると農民たちが考えたのは、神から独立して、<神のように>なろうとする人間の欲求であり、罪の本質を反映しています。彼らは息子を捕まえてぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。ここに神の愛する子イエスの死が暗示されています。これはイエスの受難予告です。

主人は<戻って来て、この農夫たちを殺し>は、農夫たちは最後の日に神の怒りによって裁かれることが言われています。神はイスラエルの民を滅ぼし、その地を<ほかの人たちに与えるにちがいない>。これは、ローマ軍によるエルサレムの滅亡と占領(紀元70年)を指しています。

「ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」

主イエスは、イスラエルに約束されていた神の国はとりあげられ、御国にふさわしい異邦人に与えられるに違いない、と言われました。このことは、やがてイスラエルの地位が教会に与えられることを示しています。

 主イエスは、このたとえを語ったあと、彼らを見つめながらこう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 イエスは詩編118・22~23を引用されました。大工が捨てた石が隅の親石になった、という比喩を用いて、敵にとっては見捨てられた人・民と見えたものが、神にとっては価値あるものであったことを宣言し、神は救いのために行動され、この奇跡的な勝利は全く神によるものであった、と賛美している個所です。<隅の親石>とは、家の土台や、アーチ型の天井を支える要石(かなめいし)のことです。

 後に隅の親石として決定的に重要な役割を果すことになる石を、家を建てる者たちが、「これはいらない、役に立たない」と言って捨ててしまうということが起ると、、聖書が既に語っていることを、主イエスは示したのです。

跡取り息子を殺せば相続財産であるぶどう園が自分たちのものになる、と言う見当違いをしている者たちがいる、ことを示したのです。ユダヤ人の指導者たちによって殺されるイエスこそ<隅の親石>となる方であり、ユダヤの民によって捨てられ、殺されるが、必ずよみがえって、世を治める主となることを予告されたのです。イエスの死と復活は神の救済計画の実現であることを語ったのです。イエスは自分こそ世を救うメシアであることをここで明らかにされました。

 「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(イザヤ書8・14~15)というみ言葉は、隅の親石となる主イエスを拒み、敵対するなら、その人は滅びに至る、ということを意味しています。隅の親石はそのように救いと滅びとを分ける決定的な意味を持っているのです。

そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちを指して語っていることに気付きました。このたとえは、ユダヤ人の罪を鋭く突いており、ユダヤ人であれば、だれにでもすぐわかるたとえです。彼らはこのたとえを聞いて憤慨し、殺意にまで駆り立てられますが、民衆を恐れて、手を出すことが出来ませんでした。

主イエスの語ったこの「ぶどう園と農夫のたとえ」は、決してユダヤ人とその指導者たちへの非難や攻撃ではありません。それはイエスの生命(いのち)を賭けた警告であり、訴えでした。この警告を聞き入れないとき、そこには審判がり、神の判決があるのです。しかし、彼らはこのイエスの言葉を聞かないで、かえって捕えて殺そうとはかるのです。そこにイエスの十字架の死が起こるのです。

 このたとえは、今日の時代に対する神の言葉でもあります。

神はぶどう園を作って、人間に貸与し、長い旅に出られました。神が離れておられるというところに人間の生の現実があります。ぶどう園とは世界です。私たちの人生は、ぶどう園を神から貸与されたようなものです。この世界の主人は私たちではなく、神が主人です。神が天地の創造者であり、すべての支配者です。人間は被造物として生きることを許されています。人間は神の前に生きる存在です。しかし、主人の不在は、まさに農夫たちが主体的に行動できるときです。しかし「罪を犯すほどの自由」を行使したために、神から離れ、自己中心的な罪に染まりました。これが神との交わりを絶たれた死です。神は、この世界のすべての人々を救うために、御子イエス・キリストを遣わされました。ところが、神の民として先に選ばれたユダヤ人たちは主イエスを捕え、十字架にかけて殺してしまいました。神は、主イエスを死からよみがえらせ、全世界のすべての人の救い主とされたのです。キリストは神にそむく私たち人間に対する神の最後の救いの手段なのです。神は、「わたしは、お前たちにわたしの心のうちにあるすべてのことを、このわたしの子において示した。わたしの憐れみと愛の深淵な目的を啓示した。お前たちは彼の方を向き、注意して従おうとしないのか」(A.H.ハンター<イエスの譬えの意味>p.175)と訴えています。

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