富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

アンティオキア教会の誕生  使徒言行録11章19~26節

2013-06-16 17:31:49 | 礼拝説教

本日の聖書の個所、使徒言行録11章19節以下には、アンティオキアという町に、本格的な異邦人教会が誕生したことが語られています。このことは、教会の歴史において、大きな転機となった特筆すべき出来事でした。まず第一に、このアンティオキア教会は、ユダヤ人でない、異邦人を主なメンバーとして成立した最初の教会です。第二は、このアンティオキア教会が、パウロの伝道旅行の根拠地となりました。パウロ、このときはまだ「サウロ」という名前ですが、三度にわたって大伝道旅行を行い、アジアからヨーロッパにかけて、各地に教会を築きました。第三に、このアンティオキア教会において、キリストを信じる者たちが、初めて、「キリスト者(クリスティア―ノス)と呼ばれるようになりました。英語で言うと「クリスチャン」という言葉です。アンティオキア教会は、この三つのことにおいて重要な役割を果たしました。
 アンティオキアという町は、現在はシリア(シリア・アラブ共和国)の国境に近い、トルコ共和国のアンタキヤと言う名の町です。当時のアンティオキアは、人口百万人を擁していた、ローマ、アレキサンドリアにつぐ、ローマ帝国第三の大都市で、シリア総督の所在地でした。
 使徒言行録11章19節によると、ステファノの殉教を契機に散らされた人々は(8:1参照)、「フェニキア、キプロス、アンティオキアまで」行った、とあります。「行った」と言う語は「巡り歩いた」とも訳される語です。ユダヤから地中海沿岸を北へと進んでフェニキアへと、さらにキプロス島にも渡り、そしてシリアのアンティオキアへと伝道をしていったのです。彼らは当初は、「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」のです。ところが、アンティオキアでキプロス島出身とキレネ(アフリカの、エジプトの西、今のチュニジアのあたり)出身の人々が、「ギリシア語を話す人々」、つまり異邦人に「主イエスについて福音を告げ知らせた」のです。ここに「ギリシア語を話す人々」とあるのは「ギリシア人」のことです。異邦人への伝道が、この人々によって、アンティオキアにおいて始まったのです。
 「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」主の御手が彼らと共にあったので、宣教は成功したのです。アンティオキア教会の誕生と成長は、主なる神様が共にいて助けて下さったことによるのです。伝道の実りを生み出すのは私たちの力ではなく、主のみ手です。主のみ手のお働きが、聖霊のお働きでもあります。私たちは、伝道のためにいろいろと計画を立て、それを実行していきますが、そこにおいて、聖霊のお働きを求め、私たちの思いや計画を主のみ手に委ねていくことが大切です。自分の力で何かができると思ったり、逆に自分の力ではとても無理だ、何もできない、と思うことはいずれも、人間の思い上がりです。主のみ手が働いて下さるなら、何の力もない、ちっぽけな私たちを通して、主のみ業が行なわれるのです。アンティオキア教会の礎を据えた人々は、名前も残っていない、普通の信者たちです。しかし彼らが主イエスのご支配を信じて勇気をもって伝道していったことによって、そこに主のみ手が働き、多くの異邦人たちが、信じて主に立ち帰った、悔い改めて主イエスを信じ、教会に加えられたのです。
 さてこのようにアンティオキアに異邦人を中心とする教会が生まれたことがエルサレムの教会に伝わり、そこから使者が遣わされました。そのことが22節以下に語られています。エルサレム教会はバルナバをアンティオキア教会に派遣したのです。彼は使徒としてではなく、全権を委託された代表としてでした。バルナバはアンティオキアに来て、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、彼らが信じて主に立ち帰り、教会に加えられている様子を見て、それを「神の恵みが与えられた」こととして喜んだのです。このバルナバについて、24節には「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」と語られています。4章の36節にもバルナバのことが書かれています。バルナバというのはあだ名で、彼の本名はヨセフです。使徒たちからバルナバと呼ばれていたのです。その意味は「慰めの子」です。その慰めという言葉は、励ましとも勧めとも訳せる言葉です。つまりバルナバは、人を慰め、励まし、勧めるという豊かな賜物を与えられていた人だったのです。彼は異邦人たちが多く加わっているこの教会の有り様を、それまでの常識によって、神の民の本来のあり方と違うと言って裁くのではなく、そこに、神様の新しい恵みのみ業を見て喜んだのです。相手の欠点や弱さ、あるいは自分の考えや従来の常識と違う点を見つめてそれを批判したり裁いたりするのでなく、むしろ相手に与えられている神様の恵みを見つめ、それを共に喜ぶということにおいて、彼は人を慰め、励まし、勧めを与えることができたのです。
 彼はアンティオキア教会の人々に、「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧め」ました。この「勧める」があの「慰めの子」における「慰め、励まし、勧める」と同じ言葉です。彼はこの勧めをもって、アンティオキアの人々を慰め、励ましたのです。その内容は、「主から離れることのないように」ということです。イエスこそ主である、という福音を聞いて信仰者となった彼らに、固い決意をもってその主イエスのもとにしっかりと留まり続けることを勧めたのです。こうして多くの人々が主に加えられました異邦人伝道が神のイニシアティブ(主導権)によることを示唆しています。
 バルナバがアンティオキア教会のためにしたもう一つの大事な働きは、タルソスにサウロを捜しに行き、彼を連れ帰って共に伝道したということです。9章の26節には、主イエスとの不思議な出会いによって回心し、迫害する者から伝道者となったサウロと、そのサウロの回心をなお疑いの目で見ていたエルサレム教会の使徒たちとの間を取り持ち、サウロが使徒たちの仲間になれるようにしたのがこのバルナバだったことが語られています。バルナバは、神様がサウロを、異邦人たちに福音を宣べ伝えるための器としてお選びになったことを知っていました。それで、アンティオキアに誕生した、異邦人を中心とする教会を見た時に、サウロに与えられた神様の賜物が生かされるのはここだ、と確信して、彼を連れて来たのです。「二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた」のです。こうしてアンティオキア教会は、異邦社会な中に確固たる基礎をすえました。
 27節以下に語られていることですが、大きな飢饉が起った時に、アンティオキア教会の人々は、ユダヤに住む兄弟たち、つまり具体的にはエルサレム教会のユダヤ人信徒たちに、援助の品を送ったのです。それを携えてエルサレムに届けたのがバルナバとサウロだったと30節にあります。このアンティオキア教会の援助は、生き生きとした真の教会の姿を描いています。霊によって力を与えられた教会は、遠い、はるかな土地にまで手を差し伸べるのです。そこには美しい愛と信仰の交流があります。彼らは「それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届け」ました。
 このアンティオキアで、キリスト信者たちが初めて「キリスト者」と呼ばれるようになりました。これはアンティオキアの人々が、教会に連なる信者たちのことを呼んだ、あだ名です。このあだ名が好意的な思いでつけられたのか、それとも悪意や軽蔑をもってつけられたのかははっきりしません。いずれにしても、アンティオキア教会の人々は「キリスト者」と呼ばれたのです。この事実は、「キリスト」がもはや「救世主」という称号として理解されたのではなく、固有名詞(特定の名称)になったことを示しています。何故そのように呼ばれたのでしょうか。それは彼らが機会あるごとに、イエス・キリストのことを語ったからだと思われます。ここに、アンティオキア教会の人々の力強い活発な伝道の姿が伺えます。キリスト教が世界的宗教へと発展したのは、アンティオキア教会の設立をぬきにしては考えられません。キリスト者として生きるというのは、ある倫理的道徳的な規範を守って生きることではありません。「あの人は立派な人だ」と言われるような生き方をすることでもありません。キリストのみ名によって呼ばれる者として、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを信じ、主のもとにしっかりと留まって生きることです。そこに、私たちの真実の喜びがあり、慰めがあるのです。

 


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
   | トップ | 「教会の祈りと天使による牢... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (信仰心)
2019-12-20 01:27:12
真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
返信する

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事