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↑<義の太陽>のイメージに使われたオリエントで礼拝された太陽神。は光線を翼のように広げた円盤によって表され、その翼の先には手がついており、その手が礼拝者に命と保護を与えました。
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日本キリスト教 富谷教会 週報
降誕前第八主日 2014年11月9日(日) 5時~5時50分 礼 拝 前 奏 奏楽 辺見トモ子姉 讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり) 交読詩編 63(神よ、あなたはわたしの神) 主の祈り 93-5、A 使徒信条 93-4、A 聖 書 マラキ書3章19~24節 説 教 「義の太陽は昇る」 辺見宗邦牧師 賛美歌(21) 410(昇れよ、義の太陽) 献 金 感謝祈祷 頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民) 祝 祷 後 奏
次週礼拝 11月16日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分
説教題 「エズラの祈り」
聖 書 エズラ記 9章6節~15節
交読詩篇 115 讃美歌(21) 16、403、24
本日の聖書 マラキ書3章19~24節
19:見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
20:しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。
21:わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
22:わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。
23:見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
24:彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。
本日の説教
マラキ書1章1節には次の様な表題が書かれています。
「託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。」
<マラキ[ヘブライ語では、マルアーキー]>は「私の使者」を意味する言葉です。マラキ書3章1節の、<見よ、わたしは使者[マルアーキー]を送る>から、この書の呼び名を<マラキ[マルアーキー]>と呼んだようです。
「マラキ書」は、神の託宣を受けて、神の使者となった無名の預言者の書と思われています。しかし、便宜上、この人物を預言者マラキと呼ぶことにしましょう。
マラキが神殿祭儀について多く語っており、神殿再建(紀元前515年)はすでに過去のこととされているので、マラキは捕囚前や捕囚中の預言者でないことは明らかです。マラキが指摘する祭儀の乱れは、エズラによる宗教改革(紀元前458年)以前の状態を反映しているので、マラキはそれ以前に活動していると考えられ、紀元前465年頃に活動したと推定されます。
マラキ書の背景についてお話しいたします。バビロン捕囚が終わり、強制移住させられ、59~48年間も捕らわれていたユダヤ人は、バビロンを倒したペルシアの王によって解放され、エルサレムへ帰ることが許されました。彼らは、預言者ハガイやゼカリヤ(520~518)に励まされ、18年も中断状態になっていたエルサレム神殿を5年後に再建しました。預言者ハガイやゼカリヤは、神殿再建のあかつきには、イスラエルは栄光に満ち、土地も豊かな恵みをもたらすと約束しました。ハガイやゼカリヤより35年後のマラキの時代になっても、そのしるしは現れないばかりか、相変わらずペルシヤの支配に甘んじなければなりませんでした。そのような中で、神殿再建が民にもたらした熱狂的な興奮はすでにさめ、やり場のない失望だけが民の間に広がっていました。マラキ書は、このような時代に、イスラエルの民が神の愛、恵みに気づき主への恐れと感動を再び思い起こし、祭司や民の心を再び神ヘ立ち帰らせようとしたのです。
マラキ書は、1章1節の表題の後、六つの託宣が語られます。六つの論争が、師がその弟子を教えるように問答形式を用いてじゅんじゅんと説いています。
1.イスラエルを選ぶ神の愛とその証拠(1:2~5)
「わたしはあなたたちを愛してきたと、主は言われる。しかし、あなたたちは言う。どのように愛を示してくださったのか、と。」(1:2)
始めに神は民を<愛してきた>と主張するが、民は愛されていないと抗議します。これに対してマラキは神の誠実さを思い起こさせるために、族長時代のエサウとヤコブから始めて、エドムとイスラエルの将来までの歴史を振り返り、神への信仰を告白するように招きます。主は言われます、「エドムを見よ、彼らは国を滅ぼされ、放浪している。しかし、あなたがたは故郷エルサレムに住むことを許されているではないか」と。
「あなたたちは、自分の目で見はっきりと言うべきである。主はイスラエルの境を越えて大いなる方である、と。」(1:5)
2.祭儀における無礼な態度(1:6~2:9)
「わたしの名を軽んずる祭司たちよ。あなたたちは言う。
我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。」(1:6)
父親と息子との間や、主人と奴隷との間に見られる関係から出発し、神は父として尊敬され、主人として畏敬されてしかるべきなのに、祭司はそれが欠けていると指摘します。祭儀のために不適当と見做される「汚れている」いけにえを祭司が差出ているからです。
「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。だが、あなたたちは道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせ、レビとの契約を破棄してしまったと、万軍の主は言われる。」(2:7,8)
最初、神がレビ族の祭司たちに礼拝することを教えた時、それはまさに生命と平安の契約でした。それは単に安息日毎の礼拝だけではなく、その生活全体が神を恐れ、神をあがめるものとなるようにという意図をもっていました。けれども、マラキの時代の祭司たちは人々を正しく教え導くのではなく、かえって、つまずかせ、神との約束を破るようにと教えていたのです。祭司の役割はいけにえではなく、教えることにある。こうして祭司は神と<共に歩み>、多くの人を罪から立ち帰らせる。だが現実の祭司は<道を踏みはずし>、<教えによって多くの人をつまずかせ>ている。こうして自分の方から契約を破棄している。
3.若いときの妻に対する背信(2:10~16)
「あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むと、イスラエルの神、主は言われる。」(2:15,16)
捕囚から帰国した民は自分たちの土地が異邦人に占拠されているのを見て(捕囚から帰還した時、もう65年から76年も経っていた)、土地を取り戻す一つの方法として異邦人支配者たちとの婚姻関係を求め、ユダヤ人の妻を離別し、土地の娘たちと結婚する者が多かったことが背景にあります。民のある者たちが異教の女性たちと結婚し、その妻たちの信じる異教の神への偶像に心を傾けることによって、主への契約を破っている。また、長年連れ添った妻を離縁する理由が、社会的経済的な有利さを求めて異邦人女性と結婚することにあるなら、神が受け入れるはずがない、と言っています。マラキの時代は、夫が、自らお個人的利益のために妻を捨てているのです。妻を去らせる者は不法を外套のように羽織っていると告発します。
4.神の支配を疑う者に対する審判の日の到来 (2:17~3:5)
「あなたたちは、自分の語る言葉によって、主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う。どのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか、主は彼らを喜ばれるとか、裁きの神はどこにおられるのか、などと、言うことによってである。」(2:17)
民は神を煩わせ、疲れさせている。原因は<裁きの神はどこにおられるのか>と民がつぶやくことによってである。民がこのようにつぶやくのは、悪人が栄え、神に従う者が苦しむ現実を見ているからです。
3章1節から神の答えが始まります。
「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(3:1)
神の到来に先立って派遣され、神のために<道を備える>。彼の来る日は耐えがたい日になります。その目的は清めることです。先ず祭司たち(レビの子ら)、そして次のような民です。
「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を不正に奪う者、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者、わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。」(3:5)礼拝は形だけのものとなり呪術を行う者や、結婚の神聖さは破られ、寡婦や孤児、寄留者に対する配慮は失われ、賃金はごまかされていました。
5.宗教的な義務を怠る者への悔い改めの勧告 (3:6~12)
「あなたたちは先祖の時代から、わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う。どのように立ち帰ればよいのか、と。人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。」(3:6~8)
神が罪を赦し、神の支配を現実のものとするためには、民が自分の罪を自覚する必要があります。しかし、罪の自覚を欠いている民は無邪気に<どのように立ち帰ればよいのか>と反問します。そこで神は罪の一例として十分の一の献げ物を取り上げます。<十分の一の献げ物>は、神を土地の与え手と認め、土地からの収穫物の十分の一を神殿に差し出すことです。マラキの時代、やはり十一献金がおろそかにされる中で、単にそれを規則としてと言うことではなく、神の恵みに対する応答として、またさらに豊かな祝福への道としてこのことが提示されています。真心のこもった献げ物を聖所にささげるなら、神は<天の窓>を開いて雨を<注ぎ>、干ばつを終わらせる。また、いなごの活動も終わらせ、実りを妨げていた原因を排除する、と伝えます。
6.正しい者と神に逆らう者が明らかになる審判の日が近づきつつあること(3:13~21)
「あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う。どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を、喪に服している人のように歩いても、何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。」(3:13~15)
神殿は完成したが、国の独立は起こらず、飢饉やいなごの害で収穫は少なく、人々は神の愛を疑い始め、「主は本当におられるのか。私たちのことを気にしておられるのか」と問い始めていた。神に向けた民のつぶやきに対し、神は告発します。民は<どんなことをあなたに言いましたか>と反論します。神に仕えることによって密かに求めていたものは利己的な栄華なのでしょう。神に仕えても、それが得られないので、<むなしい>とつぶやきます。
<主を畏れ敬う者>と<高慢な者>がいます。<高慢な者>は神の教えに目を留めず、その約束を信じようとはしない人のことです。神は彼を畏れ敬うものがつぶやくことがあても、彼を選んで自分のものとし、特別な宝とします。神がそうするのは彼らを憐れむからです。
「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。」(3:19~21)
神が備えた日に、正しい人と悪人とははっきり区別されます。悪人は完全に焼き尽くされる運命が描かれます。正しい人の上には、救いの勝利の<義の太陽>が昇ります。オリエントで礼拝された太陽神は、光線を翼のように広げた円盤によって表され、その翼の先には手がついており、その手が礼拝者に命と保護を与えました。ここではそのイメ-ジが借用されています。<翼>はこの光線のことであり、それによって神を畏れ敬う者はいやしを受けます。「義の太陽」とは救い主メシヤのことです。その方は闇のような時代にあって。私たちを癒し、力づけ、喜びで満たしてくださいます。高慢で悪事を行う者をじっと耐え忍んでいた正しい者は、牛舎に閉じ込められていた子牛のように、解放を喜びます。21節では神に逆らう者に対する、正しい者の勝利が語られます。
3章22節から24節は結びです。
「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。」(3:22~24)
<モ―セの教えを思い起こせ>とは、律法の規定だけでなく、モーセ五書に記された出来事をも指しています。編集者が、これらの言葉を21節の後に置いたのは、「主の日」の到来を待ち望む信仰のあり方を示すためです。かつて主がなされた救いの御業を思い起こし、来るべき主の日になされる救いの確かさを確信すること、その教えの御言葉に堅く立つ信仰こそが今求められている、というメッセージを伝えるためです。
3章1節では名指しされなかった使者が、ここでは<預言者エリヤ>とされています。彼は天に上った人物なので、神が遣わす使者に最もふさわしいからです。新約聖書では<洗礼のヨハネ>がエリヤの再来とされています。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」(マタイ11:14)再来するエリヤの役割は父と子に和解をもたらすことです。ヘレニズム時代に、ヘレニズム文化を受容した若い世代と伝統的な価値観にとどまろうとする老人との間に深い溝を作り出しました。この溝は家庭の危機にとどまらず、共同体の基盤そのもを脅かしました。この世代間の深刻な亀裂と不和が、エリヤによって終わることを告げ、希望と慰めを語ったのです。
マラキ書は旧約聖書の最後の預言書です。預言者マラキは、「イスラエルを愛し」(1:2)、しかも「イスラエルの境を越えて大いなる方」(1:5)である神を民に語りました。根本的な課題は、祭司の堕落、神殿の軽視、さらに家庭における個人的な罪の問題でした。このように、イスラエルの罪を告発しつつ(3:5)、真に救いをもたらす方の来臨を待望(3:23)したのです。<神は本当に我々を愛しておられるのか?>。この疑問への答えが、裁きの日でもあると同時に<義の太陽が昇る>時でもあります。<義の太陽>こそ、我々を救うためにこの世に来られたイエス・キリストであり、再臨されるキリストです。キリスト者の生涯のすばらしさは、この終末に支えられ、生かされているからです。<我々皆>の唯一の父、<我々を創造された>唯一の父なる神、御子キリストと聖霊なる神が、国境を越えて信じられ、崇められる日を待ち望みたいと思います。
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