富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「自分の命を失う者と永遠の命に至る人」  ヨハネによる福音書12章20~28節

2016-03-13 01:11:37 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

             週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

          受難節第5主日        2016年3月13日(日)  午後5時~5時50分

                       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 225(すべてのものらよ)

交読詩篇   22(わたしの神よ、わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書12章20~28節(新p.192)

説  教   「自分の命を失う者と永遠の命に至る者」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 502(光のある間に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                                                   次週礼拝 3月20日(日)午後5時~5時50分

                                                   聖書 ヨハネによる福音書18章1~14節

                                                   説教   「十字架への道」

                                                   賛美歌(21)299 297 24  交読詩篇 64 

    本日の聖書 ヨハネによる福音書12章20~36節

  20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

    27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

                      本日の説教

   過越祭の六日前の土曜日に、ベタニアに住むマリアがイエスに高価なナルドの香油を塗る出来事がありました。

   その翌日、過越祭の五日前の日曜日に、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出ました。そして、「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように、イスラエルの王に」と叫び続けました。ホサナとは、「どうぞお助けください」という意味でしたが、その意味が薄れて喜びの感動を表す歓声に転化していました。群衆はイエスを凱旋する王のようにして迎えたのです。イエスのなされた奇跡を聞いた群衆は、イエスを政治的解放者として、今こそ救いの時が到来したと信じ歓呼してイエスを迎えたのです。イエスはロバの子を見つけてお乗りになりました。それはゼカリヤ書9・9に描かれている、すべての武器を廃棄して争いをやめる平和の王、柔和なメシアを象徴する姿でした。群衆の期待とイエスの意図とは大きく隔たっていました。政治的な力を持つメシアを期待した群衆は、十字架への道を歩むイエスにつまずき、この後、結局イエスを拒み、イエスを十字架につけよと叫ぶようになるのです。

   この「棕櫚(しゅろ)の日曜日」から、いよいよイエスが十字架への道を歩む最後の一週間の記事に入ります。ギリシア人がイエスに会いに来たのは、その翌日の月曜日か火曜日の出来事になります。おそらく場所は神殿の異邦人の庭と思われます。

    過越祭の一週間、多くのユダヤ人たちがエルサレムに上って来ました。同様にギリシア人たちも、この祭りのために来ました。異邦人の中にはユダヤ教へ改宗した巡礼者や、割礼は受けてはいないが、ユダヤ教を信奉する神を畏れる人々がいました。イエスに会いに来た何人かのギリシア人はおそらく後者の人々と思われます。

    ギリシア人たちは直接イエスのところへ行かないで、「リラヤのベトサイダ出身のフィリポ」に「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と仲介を頼みました。フィリポに頼んだのは彼の名がギリシア名だったので、話しかけやすかったからかも知れません。フィリポもアンデレに話し、アンデレとフィリポが連れ立ってイエスのもとに行き、イエスに伝えました。

   すると、この異邦人を含む祭りに来ていた群衆にイエスは語り始めました。今や福音はユダヤ民族の壁を破って、広くギリシア世界にまで伝えられる時がきたのです。

   人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

    栄光という言葉は、神が神であられることが分かり、神の御姿が栄光に満ちることです。イエス自身の姿もまた神に等しい者であり、栄光に輝くということです。ここで言われている「栄光をうける」とは、イエスが十字架で死ぬことを意味し、その十字架の死を通してイエスが再び天のみ座につくことを意味しています。17章1節のイエスの祈りは、「父よ時が来ました、あなたの子があなたの栄光を現すように、子に栄光を与えてください」と祈っています。「時が来た」とは十字架で死ぬ時です。これまで何回か「私の時はまだ来ていない」と繰り返され語られてきました(2・4、7・6、7・30、8・20)。しかし、今その時が来た、イエスは言われました。

   はっきり言っておく、イエスは言葉を続けます。一粒の麦は、そのまま、とって置かれたなら一粒のままにとどまる。しかしこれが蒔かれて地に落ちると、この一粒の麦自体は死ぬが、ここから芽が出て多くの実を結ぶようになる。ここではイエスが十字架について死ぬことによって多くの者たちが永遠の命を与えられ生かされるという逆説的真理が語られています。農耕生活を営み、特に小麦の栽培をしていたパレスチナ地方の人々には非常に分かりやすいたとえでした。しかしそこにイエスの死の深い意味がたとえの形で宣言されています。

   自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

   「自分の命を愛する者」という時の「いのち」は、生まれながらの自然的生命です。そしてこの生命によってのみ生きようとする者は、その生命を失うことになる、というのです

    これは、この世に生かされている命を愛し、感謝することを否定している教えではありません。ここで言われている<自分の命を愛する者>とは、神様からいただいている命、神様から頂いているすべての恵みや賜物を私物化し、神様から離れて、自己中心の生き方をする者のことです。この世の価値だけを追い求め、そこに人生の意味や充実を追い求める生き方です。それは快楽や名誉などだけではなく、教養や芸術など内面的・精神的価値をも含みます。そのような価値に自分の命の充実を求める者は、死によってすべてを失います。

   「永遠の命に至る」という時の「永遠のいのち」は、神の国の生命であり、霊的生命です。<この世で自分の命を憎む者>とは、神様から離れて自己中心に生きようとする罪から離れて、イエスに仕え、イエスに従う者のことです。

   主イエスは自己中心の生き方から、神に仕え、神に従う神中心の生き方へと転換することを要求しておられるのです。しかしながら、人は誰でもあくまで自己を主張してやまない自己中心の心があり、地上的な自分の生活への執着があります。神中心の生き方へ転換しようとすれば、そこに内的な葛藤が始まります。それは自分の意志や努力では解決できません。イエスに従っていた弟子たちも、イエスの十字架の死のとき、皆イエスを捨てて逃げました。復活のイエスに出会い、聖霊の降臨を受けて再び立ち上がったのです。

   人間はより大きな神の恵みを受けることによってのみ、神中心の生きかたができるのです。主イエスの場合は父なる神と密接な愛で結ばれ、祈りの対話があり、必ず復活させてくださるという全能の神への信頼がありました。私達の場合は活ける主イエスとの「生命の交わり」に入れられ、聖霊の力をいただくことによってのみ、罪の自分を憎み、罪に打ち勝ち、イエスに従うことを喜ぶことができるのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなた(父なる神)と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17・3)」というイエスの祈りのことばがあります。イエスを受け入れたときから、死と罪の支配からの解放が始まり、永遠の命の歩みが始まり、最後に永遠の命に至るのです。<自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る>ということは、ただイエスの十字架と復活、そして昇天によって明らかにされた真理です。

  自分の命を犠牲にする自爆テロリストたちは、その犠牲的死によって英雄として天に迎えられるというあやまった信仰を抱いています。それは自暴自棄的行為を正当化した信仰です。人を憎み、無差別に人間を殺傷する行為は自己満足の自殺行為以外の何ものでもありません。

 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

  「わたしのいるところ」とは、イエスが復活し、間もなく昇る天にある栄光の座のことです。イエスに仕えようとする者は、イエスに従いなさい。そうすればイエスのいる栄光の座に、イエスに仕えた者もいることになる。父なる神がイエスを尊重されたように、イエスに従い仕える者を父なる神は大切にし、尊重してくださるという約束がなされています。

  今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。

  この27―36節はヨハネ福音書のゲッセマネの園と言われる箇所です。「今、わたしは心騒ぐ。」イエスも人の子として、心の葛藤を経験されたことが、ここに示されています。死の時を直前にした人の子イエスの叫びです。<自分の命を愛する>心と、神にみ心に従おうとする心の葛藤で、イエスの心は動揺したのです。イエスは今父なる神との祈りを通し、霊的交りを経てて、自ら十字架の道を決断するのです。

  父よ>という呼びかけはイエス御自身の口から神に対してなされています。イエスの神との親密な父子関係が現わされています。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と死を避けたい思いがありました。<この時>とは十字架の死の苦しみの時です。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」という自覚と決意が生まれます。<このことのために>とは、人間の罪の身代わりとなって十字架の死を遂げることです。神のみ旨がそこにあるなら私は喜んで父の意に従い、十字架を負おう、とイエスはついに決断したのです。<父よ、御名の栄光を現してください>とは、神の偉大さ、すばらしさを現してくだい、という祈りです。ヨハネ福音書17・1でイエスは次のような祈りをしています。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。

  すると、天から声が聞こえました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。

  イエスの業を通して神の栄光が既に明らかにされた。これからイエスの十字架の業によって再び栄光を現そう。このことによってイエスが神から遣わされた救い主であることを明らかにする、と言われました。イエスにたいする父なる神の声は、大きな励ましをイエスに与えました。このような励ましに支えられてイエスは使命を果たされたのです。

  主イエスに従うわたしたちも、主イエスの祈りに学び、絶えず神に祈りつ、聖霊の励ましと力をいただき、神のみ栄えを現しましょう。

 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(ヨハネの手紙一、5・14)

 

 

 

 

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