富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ヤコブの夢と賛美歌「主よ、みもとに近づかん」」 創世記28章10~22節

2019-07-05 09:49:22 | キリスト教

        ↑ スペインの画家ムリーリョ(B.E.Murillo )の「ヤコブの夢」

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会  週 報

  聖霊降臨節第5日  2019年7月7日  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

           礼 拝 順 序

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂〔たま〕のひかり)

交読詩編   51

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者木

聖 書(新共同訳) 創世記28章10~22節(旧p.46)

説  教   「ヤコブの夢と讃美歌「主よ、みもとに近づかん」  辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(旧) 320(主よみもとに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

        次週礼拝 7月14日(日)  午後5時~5時50分 

            聖 書 創世記32章23~33節

            説教題 「神と格闘するヤコブ」 

            讃美歌(21) 492 457 24 交読詩編 62

    本日の聖書 創世記28章10~22節

 28:10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 16ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 17そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、 19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。 20ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、 21無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、 22わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

         本日の説教

 アブラハムの子イサクには、双子の兄弟が生まれました(創世記25章19節以下)。先に生まれた子は赤かったのでエサウと名付けられ、後から生まれた子は、兄のかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けられました。この二人は性格の違う兄弟でした。エサウは「巧みな狩人で野の人」だったのに対して、ヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。ヤコブは、兄のかかとをつかんで生まれてきたように、人を押しのける狡猾な人だったようです。父イサクはエサウを愛しました。狩りの獲物が好物だったからでした。母リベカはヤコブを愛しました。親の偏愛を受けて二人は育ちました。

 父は、兄のエサウを跡取りしようと考えていました。しかし、ヤコブは、腹のすいたエサウから、一杯の煮物と引き替えに、長男としての権利を自分のものにしました。しかし、誰が跡取りとなるかは、父イサクが誰に祝福を与えるかにかかっていました。老い先短いことを意識したイサクが、エサウに祝福を与えようとしていました。ところが、ヤコブを気に入っていた母リベカが、イサクの目がかすんでよく見えないのをいいことに、ヤコブにエサウの着物を着せ、エサウになりすまさせて、父イサクの祝福を代わって受けさせてしまったのです。ヤコブはこうして、長男としての権利を奪っただけでなく、エサウに与えられるはずだった祝福をも奪い取ってしまったのです。エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と、エサウはヤコブに殺意を抱くようになりました。それを察知した母リベカは、ヤコブを守るために彼をハランへと旅立たせることにします。    

  その口実は、ハランにいるリベカの兄ラバンの娘を嫁に迎えるためということでした。リベカは夫に、ヤコブを嫁取りのために旅立たせようと提案しました。リベカは、「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません(27:46)」と夫に告げました。エサウがヘト人の娘を妻として迎えたため、彼女たちが、イサクとリベカにとって悩みの種となっていました。リベカは、アブラハムの神、ナホル(アブラハムの弟)の神、その子ベトエルの信仰のもとで育ったヤコブの伯父ラバンの娘とヤコブを結婚させようとしたのです。 

                 

    ベエル・シェバから、パダン・アラムのハランまでの地図。

  ヤコブは父イサクをも騙したが、父はこれを赦し、祝福して送り出しました。こうしてヤコブは、ベエル・シェバの父の家からパダン・アラムのラバンの所へ旅立ちました。パダン・アラムはアラム人(古代シリヤ北部に住む民族)の平地の意味で、ベエル・シェバから725キロもある、徒歩で一か月を要する遠い地です。今日のシリヤの国境を越えたトルコの地です。ラバンは母リベカの兄です。この旅は、兄が父から受けるはずの跡取りの祝福まで奪ったので、兄エサウの憎しみを買い、争いを避けるためと信仰の妻を与えられるの二つの目的のために、母の勧めで伯父ラバンの許に身を寄せる旅でした。 

       

  ヤコブは、アブラハムの歩んだ道をたどってハランに向かう。

  一人でベエル・シェバを立ったヤコブは、後にベテルと呼ばれる場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜の過ごすことにしました。ベエル・シェバはパレスチナ南部の町であり、ヤコブの父イサクがそこに井戸を掘り当てて家族と共に住んでいた所です。ヤコブにとってここは父の家、故郷なのです。しかし今ヤコブはその故郷を離れて、シリアのはるか北方、ユーフラテス川の上流にあるハランへと旅をしているのです。これまでの生活は、家督相続の争い、兄弟との不和、人間的な争いに満ちていました。表向きは嫁探しの旅ですが、実は逃亡の旅でした。人里離れた誰もいない夜空の下で、石を枕にして寝るヤコブの姿は哀れです。このヤコブの姿は、人間関係における破れと挫折に苦しむ人間の姿です。この時のヤコブの心境はどのようなものだったでしょうか。希望のない孤独な荒れ野の旅です。神様の祝福を求めるあまりに、兄の心を踏みにじるようなことをしたヤコブは、石を枕にしながら自分のしでかしたあやまちを反省したに違いありません。自分の将来はこれからどうなるのか、不安を覚えていたに違いありません。

    

        ヤコブが夜夢を見たベテルの風景

  その夜、ヤコブは夢をみました。旧約聖書では、夢という手段を用いて、神様がヤコブと出会われた出来事でした。「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりして」いました。前の口語訳聖書ではこの「階段」は「はしご」となっていました。「ヤコブのはしご」という言葉がここから生まれました。旧賛美歌320番「主よみもとに近づかん」の3節では「かよう梯(はし)の上より」とあり、賛美歌21の434番では、「天よりとどくかけはし(架け橋)」とあります。この階段は地上から天に上っていく階段ではなく、神の住む天から地に下ろされた階段です。この階段は、天と地とをつなぐものです。神様の世界と人間の世界とをつなぐ架け橋がここにある、ということを、ヤコブはこの夢において体験しました。ヤコブはこの夢で、自分がいるこの場所が神様の御臨在される所であることを知らされたのです。

  ヤコブは、アブラハム・イサクと続いた神様の祝福を、父から受けながら、約束の地を負われた身でした。ヤコブはもう自分には神様の祝福はもうないのではないかとさえ思ったことでしょう。しかし、そのようなヤコブに対して、神様は夢を見せ、ヤコブに近づき、かわらに立ち、語りかけられました。

 ヨハネによる福音書1章51節に語られています。「更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」。「神の天使たちが昇り降りするのを見る」、これはまさにヤコブがあの夢で見たことです。「人の子の上に」とあります。「人の子」とは主イエス・キリストのことです。ヤコブが見たあの階段は、主イエスを指し示しているのです。主イエスが天と地の、神様と私たちの間の架け橋です。

 ヤコブは主なる神のご臨在と神が語りかけてくださったみ声を聞きました。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。」そして、カナンの土地を与えるという約束を神様からいただいたのです。「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。また、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなって世界に広まり、地上の氏族はすべてあなたとあなたの子孫とによって祝福に入る。」

 そして、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り・・・あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われました。

 ヤコブは眠りから覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」ヤコブの見た夢は正夢でした。神は、夢をとおして、ヤコブに語りかけてくださったのです。神からも人からも遠く離れていると思っていた野外のヤコブに、神が現れてくださったのです。

ヤコブは朝早く起きると、自分がまくらにした石を立てて、油を注いで聖別しました。その所の名をベテル(「神の家」の意)と名付けました。神がこれからもヤコブと共にいてくださるなら、この地を礼拝の場所とし、必ず収入の十分の一をささげると約束し、請願を立てたのです。

 ヤコブにとって、体を横たえたルズの荒野は、「神の家」「天の門」となりました。私たちにとっても、ここには神はおられないと思う所にも、神はおられるのです。主イエスがこの地上にこられて救いのみ業を完成してくださったことにより、地上のすべての場所がベテルとなりました。神は地上のどこにでも偏在され、支配されておられるのです。私たちが神から最も遠く離れたとこに置かれていると思えるような所、最も落ち込み気落ちしているときにも、私たちが最も弱い、貧しい状態にあるときにも、主イエスは共にいてくださり、力を与え、祝福してくださるのです。たとえあなたが知らなくても、主はいつもあなたの側にいてくださり、あなたの心に愛をもって宿ってくださるのです。

 賛美歌「主よみもとに、近づかん(Nearer,my God,to Thee)」の作詞者は、英国のセーラ・F・アダムスという女性です。三十五歳のとき、ヤコブの夢にもとづいて、一日で作りました。最初は彼女の姉が作曲しました。翌年の1841年に収録され、その後、英国ではジョン・B・ダイクスの曲(1859年)で歌われました。この賛美歌は米国の伝えられ、1856年にローエル・メーソンが曲をつけると、爆発的に有名になりました。1912年のタイタニック号沈没の際に歌われたというエピソードで有名です。1953年に米国で「タイタニックの最後」というタイトルで映画化されました。1993年には、レオナルド・ディカプリオ主演の映画「タイタニック」が世界の話題になりました。

  讃美歌320番の第4節の邦訳は、「目覚めてのち まくらの 石を立てて めぐみを、いよよせつに 讃えつつぞ、主よみもとに 近づかん。」です。

  これでは作詞者の意図した内容を伝えていません。作詞者は主を賛美することによって、心を石にするような悲しみが消え、喜びに変わることを伝えたいのです。原曲の4節は次のようになっています。

 Then with my waking thoughts Bright with Thy praise, Out that Thou stony griefs Bethel I’ll raise;  So by my woes to be、Nearer, my God, to Thee, Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee!

 訳すと、「目覚めているときの思いは、主を賛美して喜び輝き、心を石にする悲しみは失せ、わたしはベテル(神を礼拝する場を示す石)を立てる。わたしに悲しみがあるなら。わが神よ、御許に近づかん、御許に近づかん。」となります。

 これを、日本語の歌詞にするのはむずかしいのですが、こんな歌詞になります。

 「目覚めてのち まくらの、石を立てて 主讃え、憂いは消え 喜び満つ 主よ、                みもとに 近づかん。」 

 わたしたちが主のもとに近づく前に、主がわたしたちのもとに近づいてくださっています。「わたしはあなたと共にいる。あなたは独りではない」と言っておられます。だから、わたしたちも、主の御そばに近づくことができるのです。

 セーラの母親は、彼女が五歳の時、結核で他界し、彼女も彼女の姉も同じ病に一生苦しみます。セーラは、三十一歳の時結婚しますが、四十三歳の若さで世を去りました。結核で死亡した姉の看病で命を縮めたのです。彼女は六十三篇の歌詞を書き残しました。彼女には深く苦悩する魂が潜んでいました。悲しみが彼女を神に近づけるのです。いや、神である主が、彼女と共にあって、彼女を力づけ、彼女に喜びの賛美を与えるのです。

 この讃美歌は葬儀のときに歌われることが多いが、主と共なることを求め、恵みと癒しを願う、向上のための歌なのです。「主よ、御もとに身を寄せます」で始まる詩編31篇の8節のように、「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの悩みを知ってくださいました」と歌う賛美であり、主の励ましを求める祈りの歌なのです。

   

 

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