行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

答えは1つとは限らない

2016年11月11日 | 仏の心
お寺の法事の折、三本線香をお供えしている人があると、それを見ていた老人が、

「線香は1本ずつお供えするもんじゃ。そんなことも知らんのか」

といさめました。それを聞いていた別の老人が、

「わしゃあ、和尚さんから、自分の分と、仏様の分2本お供えすると聞いたんじゃがの。2本が常識なんじゃよ」

といいました。

正直なところ、線香の本数などどうでもいいことなのです。

宗派によって考え方が違いますし、地域によっても違います。

たとえ、3本が正しいとしても、参列者が大勢いる場合などは1本で遠慮しておくことが良い場合もあります。

正しいことは一つとは限りません。

それを自分の答えだけが正しいと思い込んでいることを我見といいます。

「葬式のしきたりはどうじゃ」「法事のしきたりはこうじゃ」

と、長老面した人(若い人にもいますが)はいるものですが、地域や宗派によって違うのだということは心得ておいた方がよさそうです。

こうでなければならないというものがないというのが、空の思想です。





塞翁が馬

2016年11月08日 | 仏の心
中国に塞翁という老人が住んでいました。

ある日、塞翁の馬が隣国に逃げて行ってしまいました。

近所の人はその不幸に同情しますが、塞翁は、

「これで良いことが起こるかもしれんよ」

と言いました。

やがて、逃げた馬は駿馬をつれて戻ってきました。

近所の人は、

「よかったね」

と言いますが、塞翁は

「これが災いになるかもしれんよ」

と言います。

塞翁の息子は喜んで駿馬に乗りました。

息子は落馬して脚の骨を骨折してしまいました。

近所の人が不幸を同情すると、塞翁は

「これは吉事の前触れじゃよ」

と言いました。

そして、この地域で戦争が起こり、多くの若者がかり出されて戦死してしまいました。

しかし、塞翁の息子は骨折していたため、戦争に行くことがなく、無事だったということです。


この話は、一つの物事にはプラス、マイナスの二面性があるということです。

出世しても、家族との時間を過ごすことができず、家庭が崩壊してしまう人もいます。

頭が良すぎて物事を深く考えすぎて、頭がおかしくなってしまう人もいます。

物事には実態がなく、よかったのか悪かったのかわからないのです。

それが般若心経の空の思想なのです。

良いことも悪いことも受け入れなければ

2016年11月04日 | 仏の心
むかし、インドに商人がいました。ある日、商人の家に美しい貴婦人がやってきました。

「私をこの家に住まわせてください。私は福をもたらす吉祥天ですのよ」

とその女性が言うと、商人は

「どうぞ、むさ苦しい家ですが住んでつかあさい」

と女性を迎え入れました。

そしたら、その女性の後ろを貧しそうな女性がついて入ってこようとするではありませんか。

「あんたあ、誰なんかね?」

「私は黒闇天よ。貧乏神ね。」と貧しそうな女性は言いました。

「あんたは、住まわせんよ。帰りんさい。」と商人が言うと。吉祥天は

「それは、あたしの妹よ。私たちはいつも一緒なの。一緒に住まわせてちょうだい」

と言いました。

結局、商人は吉祥天姉妹を住まわせることをしませんでした。

人間は良いことばかり受け入れることはできません。

悪いことも受け入れなければなりません。

年をとり、病気や死も受け入れなければなりません。

良いことばかりあるのが人生だと考えてしまうととても苦しくなります。

尾崎放哉に

「入れ物がない両手で受ける」

という句がありますが、

良いことも悪いことも受け取らなければならないのが人生なのだと諦めることが大事なのです。



群を抜けて益なし

2016年11月01日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
群を抜けて益なし

道元禅師の言葉です。

競争に勝っても何にもならないよということです。

私はある程度の競争は必要悪だと思いますが、

決して人間を幸せにするものではありません。

明治以降の日本は西欧諸国に追いつくため、競争を是としてきました。

戦後はお金が幸せの基準であるかのように錯覚し、

健康や自分自身の幸せを犠牲にしてまでも競争してきました。

学校でも競争競争です。

テストも競争、受験も競争、部活動も競争

しかし子どもたちは心と体が疲れ果ててしまい、

不登校、いじめ、自死などに至ってしまいました。

もちろんすべて競争が悪いわけではありませんが、

競争が一番という考えを省みてみる時期が来ているのではないでしょうか。

宗教は心の平安を取り戻すのが大きな目的の一つです。

道元禅師の「群を抜けて益なし」を今一度考えてみようではありませんか。