行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

死は新しい何かの始まりなのか?

2020年01月07日 | 仏の心
私は3回死にかけたことから、死とは終わりではなく、何かの始まりなのだと思うようになりました。これは仏法とかキリスト教とかの内容から見れば荒唐無稽なのかもしれません。
宮沢賢治は『春と修羅 序』の中で

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

と語っていますが、最後の「ひかりはたもち その電灯は失はれ」という部分がよくわかるような気がするのです。
肉体は滅んでも、永遠の命を生きているような気がします。
花びらは散っても花は枯れていない
「死とは何か」これは哲学ではなく、感性の世界のことだと思います。
宮沢賢治は「詩」とは言わずに「心象スケッチ」と言っていますが、まさにそうなのだと思います。
「死は何かの始まり」というのは頭で考えてもわかりません。自然と対話し自分の中の本当の自分と対話してみてわかることなのです。

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