行雲流水

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大燈国師の遺戒

2010年09月28日 | 禅の心
京都紫野の大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)の遺戒を読んでみましょう。


汝等諸人此の山中に来つて道の為に頭を聚む。
衣食の為にする事なかれ、
肩有つて着ずと云ふ事なく、口有つて食はずと云ふこと無し。
只須らく十二時中無理會の處に向つて、
究め来り究め去るべし、
光陰箭の如し、謹んで雑用心すること莫れ、
看取せよ看取せよ。
老僧行脚の後或は寺門繁興佛閣経巻、金銀を鏤め、
多衆閙熱或は誦経諷呪長座不臥一食卯斎六時行道、
直饒恁麼にし去ると雖も、
佛祖不傳の妙道を以て、胸間に掛在せずんば忽ち因果を撥無し、
眞風地に墜つ、皆是れ邪魔の種族なり。

老僧世を去る事久しくとも兒孫と称する事を許さじ。
或は一人有り野外に綿絶し、
一把茅底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過すとも
専一に己事を究明する底は、老僧と日々相見報恩底の人なり、
誰か敢て軽忽せんや。
勉旃。勉旃。


修行僧達よ、この修行場(寺)にやってきたが、仏道の修行の為に集まってきたのである。良い着物を着、美味しいものを食べんがために修行するのではない。着物を着るな、食事をするなと言うのではないが、そんなことに気を取られずに、全てを仏道の修行に打ち込め。そしてそれを極め尽くすことだ。日々時は矢のように過ぎ去って行く。よけいなことを考えずに、禅の道を脇目もふらず会得せよ。font>

雲水として、寺で修行することは、あくまでも自分自身を厳しく見つめていくことが肝要です。寺が反映して栄えていくのは、みなが修行していった一つの結果であって、それが目的ではないはずです。
同じことが、日常生活にも言えると思います。地位や名誉や財産があっても、人徳のない人は寂しいのです。どんなに立派な家に住んでいても、人間性が豊かでなければつまらないものです

京都市北区大徳寺三門


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