野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

サザンカ @ 野々池貯水池

2023-12-08 06:41:13 | 野々池周辺

もうすぐ12月も中旬になる、この時期はすっごく寒い日があるかと思えば、今日(7日)みたいに 少々風が強いが暖かい日もある。そうこう言っていると、もうすぐ正月だ。

野々池貯水池を通る度に、あるいはジョギングコースに上がる度に、目につくのが一本の「サザンカ」の花。晩秋も終わりかけて冬のかかりのこの時期、一番最初に咲くのが「サザンカ」は赤白色。年を越さずに、11月の、しかも一番先に咲くのが、このサザンカで、ほとんどは赤系のサザンカが多い中で、白地に紅色に薄くつつまれたサザンカは珍しく、特に膨らみ始め頃が可憐でかわいらしく見栄えも良い。これが咲くと、次に咲くのは来年4月頃の椿まで待たねばならない。だから、我々、野々池貯水池周辺に咲く花弁の移り変わりで季節を感じる老人にとっては、この「サザンカ」が秋の終わりで冬の始まりである。
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「KX50周年を祝う有志の会」のお裾分け

2023-12-07 06:13:21 | その他
「カワサキプラザ神戸垂水から提供のスタンド花輪」

12月2日の「KX50周年を祝う有志の会」開催に多大な援助をしてくれた一人が、「カワサキプラザ神戸垂水」の森田社長。
我々年寄りを含むボランティアの素人集団の「手作り開催」に花を添えようと、高価なスタンド花輪(花輪の値段を聞いてびっくり)に加えて好評の協賛品もたくさん提供してくれたので、会場は一層華やかになり賑わった。持つべきは良き仲間だ。会が終了すると、スタンド花輪から飾ってある花を数輪持ち帰る多くの人がいたので、私も記念にもらって、家の玄関に今も飾っている。暫く飾った後、ドライフラワーにする良いと聞いたので、そうする。
   
店の名前を、「マイスター」から「カワサキプラザ神戸垂水」に変更して以来だから、11月の初め、久しぶりに訪問した。森田社長とは、彼がカワサキ技術部のモトクロス開発班に在席し、その後二輪販売の勉強のため一時KMJに出向してのち、「カワサキ・マイスター」と言う名のオートバイ販売店を開店し、もう長い付き合いである。カワサキの技術部在席していた頃はモトクロス開発部に所属し、モトクロスマシンKX125のエンジン開発を担当していた。125㏄の排気量だから、もともと非力だが、それを、それこそ寝るのを惜しんで、家に帰っても布団に入っても125の出力向上を模索していたと聞いた。毎日のようにエキゾートパイプの形状を変えてトライしていた。ある時、エンジンを台上に掛け動力計の荷重をかけると、何かが違う、と言う。下方からエンジンの回転を上げると、エンジンの食いつきが違うと言う。これがKX125エンジンのトルクを一回り大きした要因だ。このエンジンは米国のモトクロス専門誌でベストマシンに選ばれ、米国のJeff Ward 選手を始めとするカワサキワークスに多くのチャンピオンをもたらしたのだ。2ストロークエンジンの開発を成功させるためには、たくさんの汗をかかねばならない(=多くの実験をこなすこと)ことはよく知られた事実だが、森田さんの勘の良さ、能力と執念がこれを可能とした。

カワサキの二輪販売店を開いて、しばらくはモトクロスチームを作って全日本選手権に参戦していた。自前のエキゾートチャンバーを作ってレースに出ていたので、他のチーム員から羨望の的であった。今は、二輪販売の社長だが、昨今の二輪事情や顧客の求める二輪を良く分析しており、カワサキプラザの良い点等を含め色々教えてくれた。カワサキ二輪の販売はどうかと聞くと、もっと売れるという。彼の人柄の良さ、勘の良さと能力の高さから言えば、確かにそうだと思う。

「KX50周年を祝う有志の会」を開催したいと声をかけると、すぐに賛同し馳せ参じてくれた。こういう人が居ると本当に心強く、感謝しきれない。
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「KX50周年を祝う有志の会」・・「let the good times roll」

2023-12-06 06:14:11 | 二輪事業
 
  
2023年12月2日、「KX50周年を祝う有志の会」の懇親会を、KXの故郷明石で開催した。
今回も、カワサキでMXに従事してきたメンバーだけに限定せず、広くカワサキモトクロスを応援してくれた在野の支援者、いわゆる「緑の血」が流れている人も含めて案内を回し、当日参加を加えると83名の出席となった。これは「KX40周年」「KX45周年」とほぼほぼ同数の出席者となった。また、会場設営や受付等にボランティア応援者が早くから駆けつけ準備して頂いた。

カワサキの二輪車の中で、開発、生産、販売そしてレース活動を51年間も絶えることなく続けてきた唯一のモデルが”KXシリーズ”。1972年に技術部にレース車の開発運営を担当する開発1班が結成され、始めて名付けられたモトクロス専用車”KX”、その機種名を一度も変える事なく続いた51年間だ。こんな機種をカワサキでは他を知らない。言い換えれば、カワサキのリーディングモーターサイクルの一つと言っても過言ではないと思う。この懇親会、カワサキのレース活動やKX立上げに苦労された大先輩達がお元気なうちに会をやらねば後輩として後悔しないうちにと、それこそ「隗より始めよ」ではないが、始めたのが10年前、そしてとうとうKXは歴史ある50周年となった。

今回の「KX50周年有志懇親会」の良かった点は、カワサキの最大の競争相手だった他社チームで大活躍した著名人、例えば吉村太一さんやHRCの元エンジン設計者、そして案内のFBを見て多くの一般の方が参加されたことだと思う。彼らからたくさんの祝言を頂いたが、かって敵として戦ったことなど何処に消えて、同志としてただただ嬉しいものだった。二輪ビジネスの世界では、レースが二輪ビジネスの頂点にいて、かつオピニオンリーダーであることは間違いない事実で避けては通れないものだから、共有する思いがあるのだろう。そして、この50周年の長い歴史を俯瞰するに「あの時のカワサキは頂点にあったよねとか、そしてリーディングカンパニーだったと言う事実は変えようがないよね」と言う声も多く聞こえた。しかし思うに、KX50周年懇親会に、こうしてかっての競争相手や一般の方が祝福に来てくれたという事実は、カワサキでKXを主体とするオフロード業務に従事した我々担当者や関係者にとっては何ものにも代え難い 嬉しい財産である。この声は、会の中で実施したトークショーに参加したライダーからも、また多く聞かれた。今回も、カワサキの二輪部門が昔から長く企業活動指針としてきた「let the good times roll」 活動を具現化することができ、主催者の一人として嬉しいものだった。   
  
  「カワサキKXシリーズ50周年有志懇親会集合写真:撮影、フォトジャーナリスト高橋絵里」

80にもう数年で手が届く後期高齢者を含むカワサキのリタイヤ元技術屋3人が発案・主催したので、会場設営を含めなんともぎこちない。そのぎこちなさに不安に感じた応援者のボランティア数人が実務を担当してくれた。所謂、素人集団の「手作り開催」だが、これがなんと孫もいる女性3人を含む一芸の優れ者(ボランティア参加理由を聞くと、二輪の楽しさを教えてくれたKXの催事には是非参加したいとか、レースをしたいと学生服のままの女子を受け入れてくれたのがカワサキのチームだったとか、カワサキのレース部門に在席した経験あり等々、あるいはカワサキの広宣を担当した経験ありとかの理由で参画)ばかりで、それぞれの得意分野に奔走して、手や足の動きが遅い我々高齢主催者にとって大きな助けになった。

会は、今年の物故者 への「黙祷」から始まり、カワサキのレース活動を最初に始めた90才のOB古谷さんが「初めの挨拶」を、KXの名付け親で世界のチームグリーン活動創始者でかつ開発1班の初代班長・レース監督の88才OB百合草さんの「乾杯の挨拶」へと続いた。最初の挨拶までは皆静かに聞いているものの、その後、自由歓談になると、相変わらずの賑やかさで笑声と大声の喧騒の中、会は進む。これは何時ものことだ。トークショーでは「あの時のカワサキ」として、①1973年、開発1班創設とチームカワサキの始まり、②ライダー紹介、③KX50周年記念車のデザインについて、の話があった。各団体や個人から提供して頂いた協賛品の抽選会はいつもながら好評で、「締めの挨拶」はカワサキで4度の全日本モトクロスチャンピオンを獲得した岡部篤史さんの担当、そして記念撮影へと続き、3時間で終わらせることができた。

「KX50周年有志懇親会」の始まる前から、出席されたメンバーからのFBを中心とするSNS情報が終始流れ始め、チャットを含む多くの方から、愉しいと好評のコメントが流れていた。中には、次の55周年をやれと強い催促もあったりで、「KX50周年を祝う有志の会」は、素人の手作り集団が開催した割には成功だと自画自賛しながらホッとしている。ただ惜しむらくは、今回の出席者リスト見るに、現役のKX担当者や若手ライダー諸君の参加はかなわず、次のKX50周年を担うべき若手の招聘は、我々年寄りの素人集団には予算もなくまた荷も重く、今なお敷居は高いと感じた。

「当日の式次第」
   
「当日の記念品」
●KX50周年キーホルダーとトートバック
KX50周年キーホルダーは、九州から馳せ参じトークショーを担当した元カワサキのデザイナー松見さんが今回のため特別に制作したもので大好評だった(限定数のため抽選)。同じく、KX50周年記念トートバックは元カワサキのデザイナー”デザインファクトリー”社が製作したもので出席者全員に配布。両方とも今回の特注品で非売品。
 
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KX50周年・・“Kawasaki Dirt Chronicles”

2023-12-01 06:17:27 | 二輪事業
 
11月29日のFBに、著名なジャーナリスト ”Shintaro Urashima”さんが「KX50周年によせて」と題して、「川崎重工ウェブサイト“Kawasaki Dirt Chronicles”より引用」を投稿していた。改めて読んでみると、30数年前の’90年代初頭、カワサキがモトクロスのリーディングカンパニーを自負し活動していた時期に、カワサキの担当者たちは何を考え、どんな活動をし、その結果はどうで、それは市場からどのような評価を受けたか、を記述した貴重な資料の一部である。他の部分も改めて読んでみたくて、川重のウェブサイトの”Kawasaki Dirt Chronicles”をGoogle検索するも「誠に申し訳ございません。アクセスしようとしたページが見つかりません」としか出ない。つまりこのウェブサイトの見つけ方がわからない。
 
当時、全日本選手権に外人ライダーを走らせるのに賛否両論あるのは当然で、日本人選手のみだったら貰えてた賞金がもらえなくなるだから反対論もある。しかし一方、「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』に、当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをした、榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。それには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」と。当時EddieやJeffと共に全日本を戦った日本人ライダーからカワサキの真の意図を改めて聞かされるとは思いもしなかったが、ライダー側からみてもカワサキの決断は正しかったと言う証左だろう。あれから30数年後の2022と2023年、ヤマハワークスが外人ライダーを全日本選手権に走らせている。公開されている、その目的を読んでも、当時カワサキが考えていた、外人ライダーを走らせた理由と基本的には同じに思えるから、思うに、30数年前の事情から停滞したままで、全日本はあまり変わっていないのかもしれない。

こうした、後から読んでも含蓄のある考え方を記述した資料はなかなか見つらないだけに、貴重だ。今回投稿分を読みながら、こう言う資料だからこそ、カワサキの”KX50周年ウェブサイト”にも投稿してもらいたいと切に感じた。

さて、日本の「KX50周年を祝う有志の会」は、明日12月2日、明石で開催する。1972年にモトクロスを含むレースマシンの開発とレース運営を行う開発班がカワサキの技術部に創設され、KXと名が付くモトクロスマシンの量産車が翌年の1973年に販売された。そして現在に至るまでの、半世紀に及ぶ歴史ある一部期間に在籍した経験を持つ開発に携わってきた関係者の有志は、この50周年には格別な思いがあり、「有志の会」を呼びかけたところ、在野の皆さんを含む多くの賛同者を得た。そして、皆んなでKX誕生50周年を祝おうと参加してくれる。これこそカワサキが長く企業活動指針としてきた「let the good times roll」の一つの形だと思う。

▼川崎重工ウェブサイト“Kawasaki Dirt Chronicles”より引用
「カワサキの全日本モトクロス参戦史の中に、アメリカンライダーを起用した時期がある。'92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチ。折から世代の過渡期にあった日本のモトクロス界は、彼らの活躍に大いに刺激されることになる。抜擢された助っ人が活躍した6年間で、獲得したチャンピオンシップは4個。カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だった。

「'89年の岡部篤史を最後にタイトルから遠ざかっていたので、常勝カワサキとしては『今年は取りに行くぞ!』という仕掛けが必要な時期でした」横山真一郎(KHI)は、その頃のチーム事情をこのように説き明かす。
「外人ライダーの起用には、チャンピオン獲得という使命以外にも目的がありました。当時からレース活動は量産車の先行開発の場という位置付けでしたが、日本人より速いペースで走れるアメリカンライダーを介せば、もっと高い次元での開発が行える。そしてマシン開発だけでなく、日本のモトクロス界に刺激を与え、全体のレベルアップにも貢献できる。そんな理想を掲げていたのですが、ただトップアメリカンを呼んでも、日本のレベルとは差がありすぎるという懸念がありました。ぶっちぎりで勝ちまくっては意味がない。程よく競り合いながら勝ち、日本人から見ても手が届くぐらいのライダーが理想でした。ちょうどいいのは誰か。この人選が難しかった部分でした」

抜擢されたウォーレンには、'85年にAMAスーパークロス125イーストチャンピオンになった実績と、KMC(カワサキ・モータース・コーポレーション)の開発ライダーを務めた経験があり、'91年には福岡で開催されたパンパシフィック・スーパークロスに来日した縁もあった。
'92年にウォーレンのメカニックを担当した後、'93年からKRTの監督を務めた河野孝の回想…。「ウォーレンは最適任者だったと思います。小柄なので力でマシンを押さえ込む乗り方ではなく、スピード的にも何とか付いて行けたので、日本人の手本としてもちょうど良かった。特にコースが荒れるヒート2になると、テクニックを発揮しました。1速高いギアを多用するためエンジンの回転が低めなので、ギャップで跳ねずにスムーズに走る。岡部あたりはウォーレンの走りを冷静に観察して、テクニックをずいぶん学んでいたようです」

初年度の'92年、KX250SRを走らせて24ヒート中10勝を挙げたウォーレンは、カワサキに3年ぶりのチャンピオンシップをもたらした。「願ったり叶ったりのシーズンでしたが、メカニックとしては葛藤がありました。ウォーレンには勝って欲しいけれど、花田茂樹(当時:KRT所属)ら若手ライダーも伸ばしていかなければならない。ウォーレンのセッティングを出した後に、花田のメカニックに助言したりという苦労もありましたが、第2戦九州のヒート2でウォーレン、岡部、花田が1-2-3フィニッシュを達成するなど、うれしい戦果もありました。ただ、アメリカンを採用した是非とは別に、個人的には日本人に勝たせたいとずっと思っていました。後にマタセビッチがチームに来てからも、この気持ちは変わりませんでした」

カワサキは'93年、ウォーレンの開発能力を見込んで、アルミフレーム車を投入する。「我々は常に量産を前提としてファクトリーマシンを開発してきましたが、アルミ製ペリメターフレームを採用した'93年のKX250SRだけは例外でした。技術的には砂型の鋳造パーツを多用するなどトライをしましたし、収集したデータもかなりありました。アルミフレームは重量面では有利でしたが、当時の状況ではコスト的に合わず、結果的に量産は見送られたのです。特性としては一長一短で、アルミ特有の硬さを解消するのに苦労しましたが、この経験は後々'06年型KX250F・KX450Fにアルミフレームを初採用する際に役立っています」

'93年はスズキが送り込んだ対抗馬、ロン・ティシュナーに敗れ、翌'94年も連覇を許した。カワサキにはウォーレンに代わる次のライダーが必要になった。「候補としてはマイケル・クレイグとジョン・ダウドも挙がっていましたが、最終的にマタセビッチを選びました。'88~'89年AMAスーパークロス125ウエストチャンピオンという実績はウォーレンに似ていましたが、マタセビッチはアウトドアではそれほど好成績を残していないので、ティシュナーには勝ちたいけれど勝ちすぎてはいけないという我々の要求に、ちょうど上手くマッチしそうだったからです。明石の社宅住まいだったウォーレンとは違って、マタセビッチはほぼ毎戦アメリカから通う参戦スタイルでしたが、'95~'97年と見事に3連覇を達成してくれました」

対照的な2人のアメリカンと苦楽を共有した河野は、今でも彼らのプロフェッショナリズムが忘れられないと言う。「ウォーレンもマタセビッチも、ゴールした後はしばらく話もできないほど呼吸が乱れ、ぜいぜいと肩で息をしていたものです。日本人はみんな割と平然としているし、ヘルメットを脱いですぐメカニックと会話したり、次のレースに並んでいるチームメイトに駆け寄って、ラインを教えたりする余裕がある。日本人は限界まで無理していないし、一方アメリカンたちは倒れる寸前まで攻めているんだなと、レースに対する姿勢の違いを痛感しました。みなさんはアメリカンなら全日本で勝てて当然だと思われるかもしれませんが、彼らがどれほど真剣に取り組んでいたのか、再認識してもいいのではないでしょうか。優等生だったウォーレンでも、負けた悔しさからトランスポーターの中でヘルメットを叩きつけていたことがありました。マタセビッチの場合は、2位のトロフィーをゴミ箱に投げ捨てていました。行儀は決してよくありませんが、彼らはとことん本気だったのです」

エポックを画したアメリカンの起用に、カワサキは6年目で一区切りをつけた。勝利と開発、そしてモトクロス界の活性化。当初の目的を果たしたKRTは以降、全日本モトクロスの将来を若い日本人ライダーに託していった」

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