野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

6日、梅雨に入る

2018-06-09 06:21:24 | 
  6月6日から近畿地方も梅雨に入ったと報道にあった。
梅雨入り後、晴れ間も時々出てくるが、殆どが曇り空か小雨。梅雨の入口なので左程の蒸し暑さは感じなく過ごし易い。
梅雨に入ると野々池貯水池のネジバナが咲くころだが、雨の日に昇る気になれずに庭を見渡していると、
今日も朝からジトジト雨が降ったり止んだりが続く中、こんな鬱陶しい昼間にも、庭の花は咲く。
  Z
 
 
 
            
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャンピオンを目指す ②

2018-06-08 06:22:39 | モータースポーツ
  二輪企業のファクトリーレースチームを、その企業が目的と意義をもって自己資金でレース活動運営を行う集団だとすれば、カワサキのモトクロス部門では、その中心を構成し実践してきたのが「カワサキレーシングチーム(Kawasaki Racing Team、KRT)」だ。そして、カワサキレーシングチーム(Kawasaki Racing Team、KRT)の歴史は、1967年~2011年の45年間で、最高峰部門250クラスのチャンピオン獲得数8回、同125クラスの獲得数13回、廃止になった90クラス3個を加えると計24個を数え、全日本モトクロス界において燦然たる実績を誇るチームである。(参考:ヤマハ=29個、ホンダ=21個、スズキ=19個)

黄金時代は現代ではない。その時代には気がつかず後になって初めて「あの時代はすごかった。圧倒的プレゼンスがあった」と分かるものと定義すれば、全日本モトクロス選手権におけるカワサキファクトリーレース活動の歴史のなかで、最大に輝いていた時代、それは’87~’97年代だと言うことは疑いのない事実だろう。'85年から再び始まったカワサキレーシングチームの活躍は、まさにカワサキの時代であり、カワサキの黄金期だったと言ってよい。全日本選手権におけるカワサキのファクトリーレース活動にはモトクロスとロードレースがあるが、モトクロス活動の歴史と戦績はロードレースの活動実績を上回り、カワサキのファクトリーレース活動の歴史はモトクロスが中心だったと言っても過言ではないだろう。1967年~2011年の間、カワサキモトクロスに関与した工場契約ライダーは開発主体ライダーを含め延べ140名強。加えて、メカニックそして設計や実験担当の開発陣を含む組織の連綿と続いた歴史がカワサキレーシングチームを構成し、世界のレース活動の中心基地として活躍してきた。
 
例えば、書籍「RACERS」VOL06の、カワサキロードレース特集の巻末に、加藤編集長がインタビュー通じてのカワサキファクトリーチームの印象を編集後記として寄せている。それは、「参戦と撤退を繰り返すカワサキのロードレースに未来はあるか」というものだ。「他社は続けているのに、どうしてカワサキだけが参戦と撤退の歴史を繰り返して来たのか、その根源を分析しようと試みた。それは「小さい会社」ゆえだった。経営レベルが先行不安の情勢下に陥った場合、即効性のある緊急処置を求められると、どうしてもロードレース活動から撤退せざるを得なかった」と結論付けている。「小さい会社」ゆえの悲哀が、ロードレース運営の存続にも影響し続けた歴史だと言うことらしい。

一方、同じ書籍に「モトクロス部隊がうらやましい」との記述もある。
「全日本モトクロスに行くと、今シーズンもカワサキワークスのテントが張られ、その中にファクトリーマシンがある。モトクロスにおけるファクトリー活動はここ30年以上途切れることはなかったと思う。ファクトリー活動によってKXの開発が進み、また活動によってカワサキのブランドイメージが向上し、結果KXが売れユーザー層も厚くなり、ファンは喜び、社員の士気も上がって、また新しい技術が投入されたファクトリーマシンが走り出す。そんな図式が連綿と続いている。翻ってロードはどうか。残念ながら、ファクトリーマシンを走らせて結果を残せばバイクが売れる時代ではなくなった。ならば、メーカーにとって、レースに参戦する大義は何だろう。」とカワサキのモトクロスとロードレースを対比させ所感を述べている。

カワサキのロードレース活動は参戦と撤退を繰り返さざるを得なかった、その歴史の主因をカワサキが「小さい会社」ゆえとする結論にはもう少し考察すべき事柄や意見もあると思うが、しかし、多くの日本二輪企業担当者との面談を通じて各会社の企業文化を外から見た編集長の意見は、外部から見える企業の一つの姿として謙虚に受け取る必要があるのだろう。一方、外部からみたカワサキモトクロス活動の歴史への評価は、概ねその活動を高く評価しているものと受け取って良いと思われる。

カワサキモトクロスレース活動が戦績を挙げ続けてきた歴史の一番の要因は、ファクトリーチームが技術部の開発チーム内に所属し量産車の開発をも一緒に担当してきた歴史にあるだろう。カワサキモトクロスのプレゼンスが次第に上昇してくると、常勝カワサキを維持し続ける必然性と責任に加え、いや負けるかもしれないという恐怖感が一緒になって自然と心中に沸き起こる。この恐怖感などは一度でもチャンピオンになった者でしか味わえないものだろうが、実際そうなってくる。しかし一方、チャンピオンを獲得し続けると、社内を含め周辺から雑多な雑音がそれとはなしに聞こえてくるものだ。これもカワサキモトクロスがその地位を確立したことを認める証左だと理解し納得してきた。当方が一休止すれば、敵がその席を占拠するだけのことで、それでも4社の精鋭ワークスチームが覇権を争うレースに勝つ事の難しさを理解してくれた当時の事業本部長の支援には助けられてきた。

        
 「誰でもJeff Wardと同じマシンを購入出来るし、Jeff Wardと同じようにライディングすることが可能です」 
カワサキのモトクロス開発組織は本当に小さな所帯だ。その中で持ち得る戦力で他社と互角に戦うために、カワサキ独自の戦略を立てた。それは、全日本選手権は次年度以降の量産車の先行開発に専念することだった。全日本に登場する他社の先駆的な機構を横目に眺めながら羨ましくはあったけど、自社の立ち位置は守った。他社に劣る戦力は如何ともしようがないが、持った戦力をフルに活用し全日本でのカワサキのプレゼンスを明確にすること、それは量産車の先行開発に徹することだった。その思想の延長上にKXシリーズが完成し、60㏄~500㏄までの品揃えの完成と、その技術を活用してのKDX,KLXそして三輪や四輪バギー車を自組織内で開発し市場に提供し続けた。
 
競合他社が投入する圧倒的潤沢な資金など比べると恥ずかしいぐらいの予算で、レース活動を継続し、成功させ、認知してもらうには量産KXを含むオフロード車の開発を広く手掛け事業経営に貢献すること。その間、技術者は複数の開発機種を同時に担当せざるを得ず、ファクトリーライダーもワークスKXマシンだけと限らずKLX,KDXの一般量産車の開発にも多くの時間を費やす事にならざる得なかった。幸いにも、アメリカTeam Green組織の支援体制が確立した時期もあって、カワサキオフ車の追い風となり、収益性が著しく向上し、生産ベースではカワサキオフ車の生産台数が他社競合車を抜いて一位を占める時期が数年に渡って何度もあった。この開発と生産ラインを完成し続けるために、全日本選手権レース参戦は必須だった。これが、カワサキモトクロスの成功の理由の一つでもある。

カワサキモトクロス黄金期、アメリカンライダーを起用した時期がある。'92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチだ。この時期は、前述したようにカワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し時期に相当する。この経緯は「kawasaki DIRT.CHRONICLES vol09」に記載されているが、その記述通りである。全日本選手権にアメリカンライダー採用する是非については異論があってしかるべきだが、しかし、これを機に日本人ライダーの技量は確実にUPしたことは事実だし、更に言えば、E・ウォーレンが全日本選手権から引退する最終戦の菅生で、当時のホンダファクトリーの東福寺選手が全ライダを代表してウォーレンに感謝の挨拶をしてくれたことで、カワサキの選択が正解だったことが証明された。然るに日本人選手の実力は向上したのかの結論は、2014年の4月18日の「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』にあった。当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをし、全日本選手権日本人トップの榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。 それには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。 受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」と。当時EddieやJeffと共に全日本を戦ったライダーからカワサキの真の意図を改めて聞かされるとは思いもしなかったが、ライダー側からみてもカワサキの決断は正しかったと言うことだろう。

これらはカワサキのモトクロスワークスチームが担った、長いモトクロス歴史の中で言えば、チャンピオンを目指して活動した一時期の出来事に過ぎない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あと一ヶ月

2018-06-06 06:26:54 | 二輪事業
    
「2018年、「カワサキ・モトクロスOB有志の会」のご案内」として、つい最近、こんな案内を関係者に発信した。
「皆様におかれましては、ますますご清栄のことと心よりお慶び申し上げます。
2013年はカワサキモトクロスワークス関係OB有志一堂が集まり語る会を開いた年ですが、その際、次回は5年後に再び会おうと約束してきました。そこで5年経った今回、ワークスチーム「KRT」OB有志と国内販売KMJの「Team Green」OB有志との共同懇親会「カワサキ・モトクロスOB有志の会」を計画しました。両チームとも国内外のモトクロスシーンで輝かしい実績を上げ、切ってもきれぬ関係で互いに成長しながらカワサキモトクロスの歴史を構築してきた仲間ですが、その伝統を引き継いでいかねばと、「Kawasaki Racing Team 45 & Team Green 35」を合言葉に、ご参集頂きたくご案内します。
  ①日時:平成30年7月7日(土) 午後3時~
  ②・・
  ③・・   」

来る7月7日午後3時、カワサキモトクロスに関係したOB有志が5年ぶりに神戸に集まる。
今回は、カワサキワークスを牽引してきたOB有志と国内販売会社で国内アマチュアモトクロス界を牽引した「チームグリーン」OB有志が、そして「緑の血が流れている」と自称するメンバーが、関東から九州から四国から集まってくると言う。さぞかし賑やかな会になると思う。場所は神戸有数の集客施設、5年ぶりの再会だ。

5年前、2013年と言えば、「KX40周年を祝う有志の会」に開発関係OBやカワサキワークスチーム関係OB有志が一堂に集まり、語る会を開いた年だ。当時、KX40周年にこんなことを書いていた。「1973年にデビュー以来、数多くの勝利とタイトルを獲得し続け、その評判を揺ぎ無いものとした、カワサキの輝かしいモトクロッサーブランド「KX」が40周年を迎えました。以来41年、一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年です。この間、モトクロッサーの最適技術を開発し続け、世界中のモトクロスファンに愛され、多くのチャンピオンシップでチャンピオンを勝ち取りながらKXは改良されてきました。 これもひとえに多くのカワサキファンからの真摯な指摘と支持を受けて、毎年進化し続けてきた結果であり、そして現在も進化し続けている歴史がKXの40周年だと思います」。5年前の「KX40周年を祝う有志の会」は開発・ワークス「カワサキレーシングチーム」に近い有志に出席者を限定したが、それでも九州、関東からも馳せ参じてくれた出席者は結局80名を越す盛大な会となったが、その時、次は5年後に再び会おうと約束していた。

一方、ワークス活動を行なう「カワサキ・レーシング・チーム(KRT)」とは別に、国内の販売会社が立ち上げた販促目的のレースチーム「チームグリーン」も創立されて以来、今年は35周年となる。この間、技術部がマシン開発のために運営するワークスチーム「KRT」と販売会社が運営する「チームグリーン」は切ってもきれぬ関係で互いに成長してきた。かって、KMJの「チームグリーン」は、多くの優秀なライダーを育成し国内で特筆すべきモトクロスチームとして名をあげた、モトクロスライダー憧れのチーム。誰しも一度は「チームグリーン」のメンバーになりたいと思った。優秀なライダーは「カワサキレーシングチーム」がテストライダーとして契約し、耐久テスト等で練習させながらレースはチームグリーンメンバーとして出場し、格段の実績を挙げた成績優秀なライダーは「カワサキレーシングチーム」のワークスライダーとして契約するという循環システムを構築した。共に互いに補完しあうことで、カワサキのモトクロスチームは全日本のモトクロス界において歴史を作りあげてきた。その輝かしい実績と歴史を持つKMJの「チームグリーン」も35周年になる。

カワサキモトクロスの歴史を、そもそも論で言えば、”明石工場50年史(H2年10月発行、川崎重工業株式会社 明石工場)”にはこうある。『昭和38(1963年)年5月、青野ヶ原 MFJ兵庫支部主催 第一回モトクロス大会に、市販車改造B8レーサーと経験の浅い素人ライダーでレースに臨んだ。(略)・・  このころは、工場チームの組織はなく、有志が集まり改造に取り組み、業務の合間に乏しい予算の中で残業代も返上し、手弁当さげての出場だった』と記載されている。当時、単車事業の業績が悪化し赤字が増える一方だったため、1963年に入ると事業継続か中止かが経営上の大きな課題となっていた時期であったが、青野ヶ原の完全優勝を皮切りに事業部全体が自信を取リ戻し、優勝マシンB8の成果を背景に10月、積極的に事業展開したと本書は解説している。つまり、当時単車事業部は赤字が続き事業見直しの議論が行われていたが、赤タンクモトクロッサーの活躍で、このカワサキの技術を活かせば事業は軌道に乗せることができるとの判断が下されたのだった。モトクロスの大先輩達が単車事業を救ってくれたのである。

その伝統を引き継いでいかねばとカワサキモトクロスの歴史を構築してきたOB有志が、「Kawasaki Racing Team 45 & Team Green JPN 35」を合言葉に、「カワサキ・モトクロスOB有志の会」として、この7月7日、再び集まる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャンピオンを目指す ①

2018-06-04 06:23:50 | モータースポーツ
    「Kawasaki Racing team
2018年、AMAのモトクロスナショナル戦はkawasaki Racing Team(KRT)のワークスライダーEli Tomac選手が開幕3戦6ヒート連続優勝で圧倒的強さを発揮している。目的が明確な二輪企業のサポート体制がしっかりしているので若手ライダーが次から次へと輩出してくることもあって、いつの時代もライダー層が群雄割拠しているアメリカのモトクロスレース界の中、まだ一度も負けなしというのは本当に賞賛に値すると思う。一方、全日本モトクロス選手権はと言えば、スズキワークスチームが今年から撤退し、ヤマハもワークスライダー不在の状況から必然的にライダーを確保したホンダとカワサキの戦いとなっている。そのカワサキも全日本ではワークス活動を中止し、今は販売会社がチームを作りレースを運営している状態だと聞いた。それらは、かっての4社のワークスチームが相まみえてチャンピオンを目指して戦う様相とはかなり異なり、結果的に観客動員の減少にもつながっているように見え、一部の企業が全日本選手権を戦う意義を迷っているようにも見受けられる。かっての幾重にも鈴なりの動員数を誇った時期を知るライダー諸君や関係者から現状を憂う声が各所のネット情報に多く見られる事象に、昔、少しだけ関係した者の一人としてみるに些か寂しい思いだ。

昔は昔、過去は過去、それがどうしたと言う積りも全くないし、過去を現状と比較する積りもこれっぽちも持っていないが、しかし過去の事実と実績は消え去る物でもない。ある全日本チャンピオンのコメントに「頑張って走ったけれど、タイトルに届かなかった選手が沢山いる中で、運良くタイトル保持者になれば永遠に刻まれる栄誉に輝くことが出来ます!大勢の関係者の力とファンの声援で得られた幸運がこの様に何時までも残されることに感謝いたします。ワークスライダーはタイトル目指して更なる研鑚を願うばかりです」と言う声があるのも消すことができない事実だろう。過去の実績を振り返っても、カワサキがMFJの初代全日本モトクロスチャンピオンを獲得した事実は誇るべきカワサキの宝であり、我々の世代も大先輩達に負けぬようにモトクロスの歴史を繋いできたつもりだ。思い返すに、カワサキのレース活動の主役はモトクロスで、二輪車新聞記事「カワサキ創成期を支えた人たち 今なお、強い絆で会合続ける②」には、こう書いている「とりあえずモトクロスから始めることにし、B8をべースにしたモトクロスレーサーの開発にあたった。1年間に渡る懸命なマシン造りで、約10台のモトクロス車が完成。青野ヶ原(兵庫県下)のMFJ第1回全国モトクロス大会に出場し、6台全車が1〜6位を独占する快挙となったものである。後に、川崎重工業副社長となった高橋鐵郎氏は「あのとき、青野ヶ原のモトクロス大会に出場していなければ、現在のカワサキはなかった。さらに言うなら、ホンダさんが鈴鹿サーキットを建設していなければ、現在のカワサキはなかった。つまり、現在のカワサキは鈴鹿サーキットのおかげとも言える」と、創成期のマインドとそれも持ち続けて経営を運営してきた事実は、今聞いても素直で凄い。

そこで、全日本選手権チャンピオン制度が開始された歴史について若干調べてみた。
MFJ Online Magazine 「モーターサイクルとともに50年」の「MFJ50周年記念」によると、1961年に、国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の要請により日本モーターサイクルレース協会(MFJ)が設立されたのが始まりとある。それまでは、浅間レース等をふくめ、各地域のモーターサイク愛好会の連合組織「全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)」が主催していた。

MFJの記録によると、全日本モトクロスレースの開催は1964年からとある。また、同協会の「歴史に残るライダー達の軌跡」によると、「MFJ歴代チャンピオン」として認定されたのは、モトクロスが1964年から、ロードレースが1965年で、モトクロスチャンピオンの制定がロードレースより一年早かったことになる。
 ●1964年:第1回モトクロス日本グランプリ大会を群馬県相馬ヶ原で開催。
 ●1967年:現在にも続くMFJ国内競技規則を確立し、全日本選手権にランキング制度を導入。

一方、カワサキモトクロスレースはどうかと言うと、平成2年(1990年)に発行された「明石工場50年史(発行:川崎重工業株式会社 明石工場)」によれば、1963年5月、兵庫県青野ケ原コース、MFJ兵庫支部主催の第1回モトクロス大会で初優勝し、その後も地方主催レースでカワサキは勝利を築いて行ったと解説している。当時、単車事業の業績が悪化し赤字が増える一方だったため、1963年に入ると事業継続か中止かが経営上の大きな課題となっていた時期であったが、青野ヶ原の完全優勝を皮切りに事業部全体が自信を取リ戻し、優勝マシンB8の成果を背景に10月、積極的に事業展開した、と解説している。モトクロスチャンピオン制度が確立する前だが、カワサキ単車事業の継続を決定付けたエポックメイキングの出来事として記録されている。

前述の「MFJ歴代チャンピオン」によると、全日本チャンピオン制度が確立したのは1967年で、それまでの’64~’66年はMFJ主催の日本GP勝者がチャンピオンとして認定されていた。1967年の全日本選手権にランキング制度が導入された初年度、カワサキはモトクロスチャンピオンを獲得し、その後の歴史が下記表である。
         

1967年: 250:山本 隆 90:山本 隆 *’67年はジュニア部門が最高クラス
1968年: 250:山本 隆125:星野 一義 90:星野 一義 (カワサキ:3クラス制覇)*68年からセニア部門新設され最高クラス
1969年:  90:山本 隆

  ・それまで日本GP勝者がチャンピオンとして認定されていたが、’67年からチャンピオン制度が導入され、
   その初年度の2クラスでカワサキがチャンピオンを獲得した。
  ・MFJ主催の全国大会日本GPでは、他社ワークス相手では入賞すら出来なかったカワサキは、
   3年後の'67年初代チャンピオン獲得まで飛躍的に成長した。
  ・また、’68年からセニア部門が新設され、それまでのジュニアからシニア部門が最高部門となっている。  

1976年: 250:竹沢 正治
  ・’68以来、8年ぶりに最高峰部門250チャンピオン獲得
  ・これ以降、カワサキはチャンピオンから遠ざかり低迷が続く。

1985年: 125:岡部 篤史 
  ・9年ぶりチャンピオン獲得 
     
1987年: 125:岡部 篤史
1988年: 125:岡部 篤史
     
1989年: 250:岡部 篤史

  ・岡部選手は2年連続チャンピオンを獲得し、最高峰部門250もチャンピオンとなる。

1992年: 250:E・ウォーレン 125:請川 意次 *(カワサキ:IB250/IB125を含む4クラス制覇
1993年: 125:佐々木 祐介
1995年: 250:J・マタセビッチ
1996年: 250:J・マタセビッチ
1997年: 250:J・マタセビッチ125:高見 俊次 *(カワサキ:IB250/IB125を含む4クラス制覇

  ・アメリカンライダー('92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチ)を起用。
  ・この間、獲得チャンピオンシップは最高部門クラス部門で合計7タイトル(12クラス中)。
   全日本モトクロス選手権において、カワサキの時代で圧倒的にカワサキの存在を示し続けた黄金期
  ・加えて、'92と'97年、国際B級125/250も含む全日本4クラス制覇

    
   
2003年: 125(4スト250):溝口 哲也
2004年: 125(4スト250):中村 友則
2007年: 125(4スト250):新井 宏彰
2008年: 125(4スト250):勝谷 武史
2009年: 125(4スト250):勝谷 武史
2011年: 125(4スト250):三原 拓也

  ・’03年以降のカワサキは125クラス(4スト250)で圧倒的な強さを示し、6タイトルを獲得
  ・一方、’98年以降最高峰部門250クラスではチャンピオンから遠ざかる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杏子@野々池貯水池

2018-06-02 06:17:34 | 野々池周辺
 「3月23日の杏子の花」
3月中旬、野々池貯水池に咲いていた杏子の花が2個だけ結実している。
あれだけ沢山の花を付けたのに、結実したのはたった2個とは、何とマー効率が悪い。
 「6月1日」


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大関栃ノ心に期待

2018-06-01 06:09:19 | スポーツ
   5月30日、栃ノ心の大関昇進が決定した。欧州出身では3人目の大関。
新入幕から所要60場所での昇進は2代目増位山と並び史上最も遅いそうだが、膝の大怪我で幕下まで地位をさげ、再び這い上がって大関へ昇進した。大関推挙の数字的条件は33勝目安で、37勝挙げたのだから誰も文句の付けようがない。

ここ3場所、栃ノ心の相撲は力強さがみなぎっており、TVを通して見る当方も一緒に力が入る、こんな力士に久し振りにお目にかかった。品格のない相撲に、場内大ブーイングの横綱や暴力横綱を、ここ数年見せられたので少々うんざりしていたが、来場所から面白い大相撲の取組が増える。

力強い大関と言えば、横綱になった稀勢の里が大関に推挙された時、あの物怖じしない気の強さと、鋭い眼光、強い力士との睨みあいが高揚すると赤みを帯びる容貌等、相撲ファンとっては堪らない魅力があった。稀勢の里は本当の相撲取りたる風格を生まれながらにして備えている希有な人材だと、思ったものだ。その前に遡ること数年前、大関魁皇が引退時に際して、「気は優しくて力持ち、真面目で努力家、潔い」-金太郎のような「お相撲さん」と評価され、多くの相撲ファンを虜にしたのが魁皇で、その魁皇や稀勢の里の流れを組んでいる力士が栃ノ心だと思う。稀勢の里、魁皇がそうだったように大関栃ノ心の力相撲は強烈な印象を相撲ファンに印象づけるに違いない。

これからの期待は栃ノ心が横綱になれる素材かと言う事だろう。
専門家の意見をネット検索すると、栃ノ心が横綱に昇進する可能性を否定しない意見が出始めている。夏場所の相撲を見ても、現時点の最強力士No1に挙げる専門家も多く、確かに、もっとスピードを持った立会いで一気にまわしをとれば敵なしだ。立会い後の相撲の雑さが幾分でも改善すれば向かう所敵なしに思える。しかも2015年の初場所11日目に巨漢力士逸ノ城を内無双で倒した、あの技が冴えわたれば本当に敵なしだろう。横綱推挙条件は、品格・力量が抜群であることと、大関で2場所連続優勝もしくは準ずる好成績を挙げた力士とあるから、この一年以内の横綱の可能性は十分にある。思うに、モンゴル横綱の牙城を崩すのは日本人以上の日本人の心情をくすぐる欧州力士かもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする