しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

桧垣直右

2022年04月20日 | 銅像の人

場所・岡山県玉野市築港 

 

桧垣は戦前の内務官僚知事だが、宇野港の開発功績者として新聞に名が載ることが、今でも時折ある。

 


宇野港

宇野港が世の注目をあびはじめたのは日清戦争後のことだ。
国力増強、軍備拡張の観点から、時の海軍大臣西郷従道や第十一師団長乃木希典ら多くの要人が現地を視察し、その自然条件のよさから評価したが、すぐには実現せず、
また1904(明治37)年宇野線敷設の仮免許がおりたときも見おくられ、
翌々年起工式まで行われながら、県会と県知事の対立でもめ、けっきょく内務大臣の指示で強行され、
1909(明治42)年に近代的な宇野港が完成した。

「岡山県の歴史散歩」  山川出版社  1976年発行

 

 

第8代岡山県知事 桧垣直右

宇野築港計画は、日露戦争中の明治37年県会で、当時の知事桧垣直右によって提案されたが、否決された。
このため知事は翌年ふたたび県会に提案、県会は負担にたえられないという理由で反対し、廃案にもちこんだ。
知事は「本県の公益のため」無視し、明治39年内務大臣の指示を得て原案執行を公布した。


こうして明治38年起工し明治42年竣工した。
これについで明治43年に国鉄宇野駅が開業し、中国四国の連絡の宇高連絡船が就航するに及んで、
港としても本格的形態と機能をととのえるにいたった。

「岡山県の歴史」  谷口澄夫著 山川出版社 昭和45年発行

 

撮影日・2022.4.16

 

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田村占義

2022年04月20日 | 銅像の人

場所・岡山県浅口市鴨方町鴨方 長川寺
 

鴨方の長川寺に胸像があった。

氏のことは知らないので、墓碑から転記する。

 

 


昭和24年果物出荷組合を創立し遥南園芸農業協同組合及び遥南園芸園芸農業出荷組合の名称にて昭和53年迄30年間殆ど組合長として、

この運営に当たり郷土産業のため献身努力せり


太平洋戦争中海軍参謀及び陸軍参謀として奮戦す
従五位 勲四等 海軍中佐  田村占義

 

 

(浅口市鴨方町)

 

撮影日・2022.3.21  

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ズロースのはじめ

2022年04月15日 | 昭和元年~10年

ズロースは白木屋百貨店の火災がきっかけである、という本や新聞記事がよくあるが、実際はどうなんだろう?

母は火災前の、昭和6年頃にお腰からズロースに変わり、
おばも火災前の、昭和5年頃には既にズロースをはいてる。
なお、父方と母方の祖母とも、一生お腰のまま過ごしている。

少なくとも白木屋の火災は、いわれているほどには関係ないように思える。
ズボンやスカートの普及とも関係がいくらかある。
たぶん、
昭和になってから女性はズロースをはき始め、
戦時中からズボンを履くようになったのであろう。

昭和は、食べる物が激変したが、着るものも一変した。

 

・・・・・

(昭和7年、白木屋の火事)


「隅っこの昭和」 出久根達郎  角川書店 平成18年発行
 
ズロース

日本女性にズロースが普及するきっかけは、昭和7(1932)年12月16日の、日本橋の白木屋デパートの火災、といわれる。
和服の女性たちが、裾があらわになるのを恥じて飛び降りるのをためらい、逃げ遅れて焼死した。
しかし、むしろ関東大震災が、下着革命をうながしたようである。
関東大震災は、東京から江戸のなごりを一掃した。
関東大震災は、女性の服装も変えた。
被災時の逃げまどう姿から、洋服の利点を覚ったのかも知れない。
白木屋火災は写真が、普及に拍車をかけたということか。

・・・・・・


母の話(2013.7.15)

お腰、腰巻は赤やピンクがあったり、
冬になればネルのにしたり。
巻いて紐で結びょうた。
小学校の5年か6年からズロースをはくようになった。
おじいさん(母の実父)が、井原に出ちゃあズロースを買うてきてくりょうた。

・・・・・

おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)
談・2015.7.21

着物を着た記憶はない。
小学生からズロース。

 

 

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万代常閑

2022年04月15日 | 銅像の人

場所・岡山県備前市西片上

 

真光寺三重塔と万代常閑像。

 

万代常閑(もず じょうかん)

 

(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

1675-1712 江戸時代前期の医師。
延宝3年生まれ。備前岡山藩医。万代家11代常閑。

家伝の妙薬「反魂丹(はんごんたん)」を富山藩につたえ,富山売薬の祖とあおがれた。

天和(てんな)3年(1683)富山藩主前田正甫(まさとし)に薬を献上したこと,あるいは正甫の家臣を常閑が長崎で治療したことが機縁という。

正徳(しょうとく)2年11月20日死去。38歳。姓は「まんだい」ともよむ。

 

 

じつは、境内でなく国道2号線の歩道に建っている。

 

 

撮影日・2022年4月5日

 

 

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浮田佐平

2022年04月15日 | 銅像の人

場所・岡山県津山市山下 鶴山公園(津山城跡)

 

城跡に建つ「浮田佐平翁像」、戦前は胸像でなく全身の像だったが、供出されたそうだ。

 

 

浮田佐平 うきだ-さへい

1867-1939 明治-昭和時代前期の実業家。
慶応3年10月25日生まれ。家業の製糸業をつぎ,機械製糸の導入など改良と近代化につとめ,大正元年浮田製糸を設立。
植林業,果樹園経営,奥津峡の観光開発なども手がけた。
また,津山(鶴山)城東麓に窯をつくり「佐平焼」をおこした。昭和14年2月1日死去。73歳。美作(みまさか)(岡山県)出身。

デジタル版 日本人名大辞典

 

 

 

撮影日・2022年4月6日

 

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津山城の桜 (岡山県津山市山下・鶴山公園)

2022年04月13日 | お城と桜

登城日・2022年4月5日(夜桜)、6日(午前)

 



石垣の見事さで有名な津山城。

天守閣の再建が期待されるが、地元でその議論はないようだ。

備中櫓が再建したので区切りかな?

「日本100名城」と「さくら100選」の双方に指定されている。





 

 

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足守陣屋の桜  (岡山県岡山市北区足守)

2022年04月13日 | お城と桜

登城日・2022年3月30日

 

足守陣屋石垣と水堀

宮路山南麓に構えられた陣屋は御屋敷と呼ばれ、
南、西辺にはL字状に石垣と水堀が廻らされていた。

 

 


秀吉の正室北政所の実の兄である木下家定は、慶長6年(1601)足守に石高二万五千石を与えられた。
足守陣屋は、現在の足守小学校の北隣にあたる位置にあった。

「よみがえる日本の城5」 学研 2004年発行

 

 

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備中高松城の桜  (岡山県岡山市北区高松)

2022年04月12日 | お城と桜

登城日・2022年3月30日

あまりに有名な”高松城水攻め”、

この城は、戦国のむかし、本丸のほか二の丸・三の丸・池の下丸があり、ふだんは橋で結ばれて、いざという時は橋を切っておとすようになっていた。
周囲はふかい沼地、まことに要害の城だった。

 

 


この城としての長所を逆手にとったのが、秀吉の軍師黒田官兵衛孝高である。
近郷の百姓を動員し、土嚢一俵の運搬に銭100文と米一升をあたえ約2.6kmの大堤防をわずか12日で完成し、足守川を堰き止めた。
ときは梅雨、みるみるうちに増水し、城は泥酔の中に孤立した。

(岡山県の歴史散歩 山川出版社 1976年発行)


 

 

浮き世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して

 

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富田茶臼山城の桜  (岡山県備前市西片上・茶臼山公園)

2022年04月12日 | お城と桜

登城日・2022年4月5日

 

備前市の桜の名所。

茶臼山公園に「茶臼山城跡」という標識が建っている他は、城跡であることは実感できない。

 

 

展望はすばらしく、片上湾と桜の眺めがいい。

登城口は山麓の葛坂峠で、そこでは戦国時代に宇喜多氏と浦上氏の合戦があったそうだ。

 

 

 

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周匝茶臼山城の桜  (岡山県赤磐市周匝・吉井城山公園)

2022年04月12日 | お城と桜

登城日・2022年4月5日

旧吉井町周匝の茶臼山城は、天空の城の趣があり、それに加え春に桜が咲くと一層見事な景観となる。

 

 

戦国時代の山城で土塁や空堀遺構が残っている。

城は江戸時代初期に廃城になったが、周匝の町には陣屋が置かれ、町は水運の要所として栄えてきた。

 

 

 

 

 

山頂には展望台を兼ねた模擬天守があり、吉井川の清流をゆったりと眺めることができる。

天守閣横の装置では、ボタンを押すと「吉井川詩情」という五木ひろしの歌声が流れる。

 

 

 

吉井川は四国の清流のように、静かな自然に囲まれ、見ているだけで心が安らぐ。

 

 

 

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