しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

井笠地方の塩田①

2020年01月20日 | 暮らし
井笠地方の塩田①

昭和30年代の前半まで、瀬戸内海沿岸は大半が塩田で、井笠地方も大小の塩田が連なっていた。
代表例として寄島の塩田を調べた。


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下記は、「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行 より転記

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寄島塩田が盛んになった天保期では、全国の塩田の90%が入浜式で、寄島でも入浜式で製塩していた。


明治38年
専売法が実施。自由な製造・販売は終わり、製塩のみに従事することになった。

昭和13年、
片本浜に蒸気利用式丸管機を設置し、採集したかん水をパイプで送水し一括製塩することになった。

昭和31年、
枝条架式濃縮装置が完成。


管理と経営
経営は、地主・自作・小作が、おのおの浜労働者を雇った。


浜労働者
いろいろな職種・階級があり「上浜子」は最高の地位で、雇い主から現場の管理監督の権限が与えられた。
上浜子の下に「差浜子」がいて、その下に毎日の製塩労働に従事する「浜子」と呼ばれる人々がいた。
仕事のある日だけ出てくる「切夫」「寄せ子」もいた。
収穫高を左右するといわれる「沼井踏」(沼井に集積した砂を踏み固める仕事)は技術を要する仕事で上浜子が主として当たった。
また、各戸毎に釜焚きを行っていたころは「昼釜焚き」と「夜釜焚き」があって、夜釜焚で習練して一人前になった。



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