しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

魚の販路

2020年01月17日 | 暮らし
魚の販路

金浦から「トト道」という、鮮魚を吹屋まで天秤リレーした道を発掘調査や整備の新聞記事が、ここ2~3年載ることがある。
史的に、天秤道がそんなに重要なこととは思えないが、金浦の魚がどこに、どのように販売されたかは気になる。

茂平は小さな漁港だったが、獲れた魚は伏越の市場に運ばれた。
伏越の魚市場からは、どこに・どのように販売されたかは知らない。(笠岡市史に記載がない)

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下記は、「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行 より転記

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鮮魚運搬船・仲買船・漁船等によって水揚げされた漁獲物は魚市場によって流通機構にのせられた。
口伝によると、江戸末期に中安倉に魚市場が設けられたのが始まりである。
明治、県南沿岸地方では最も多くの取引高を持っていた。

取引範囲は地元の水揚げの他、東部は淡路島・下津井・塩飽諸島、西部は香川県伊吹島・広島県鞆・田島・横島・走島であり、
市は「せり買い」で行われ、毎日朝市と夜市が開かれ、仲買人の手によって市場で値がつけられた。
せり落された鮮魚は、仲買人から小売人(行商人)により近接の地域に販売された。

商圏は二種類に分けられ、
直接消費者に売る場合は「肩荷」として運ばれ、これは現在の商圏とほとんど変わらない。
一方魚小売商に卸される商圏は、遠く備北地方の新見・高梁・総社などに及び、「奥荷」と称され仲買運搬によって輸送された。
さらに鉄道の開通により樽に氷詰めされて京阪神地方にも送られるようになった。このルートは昭和に縮小されていく。
そして輸送量は増大するが販売市場は狭少となり、高い密度の個別販売が行われていくのである。
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