しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

自由、寛容、正義を説いた勝者②蒋介石

2020年01月09日 | 昭和20年(戦後)
中国では。

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「日本帝国の最後」太平洋戦争研究会編 2003年発行 新人物往来社、より転記。

報復を禁じた蒋介石の放送。

日本政府がポツダム宣言の受諾を条件つきながら連合国に申し入れたのは8月10日のことである。
中国大陸ではひとしおの喜びと感慨を持って迎えられた。
重慶はむろんのこと、各地は爆竹とドラの音と民衆の雄叫びでわきかえった。
8年にわたる抗日戦が勝利に終わったのであるから当然だった。
蒋介石が放送した、その要旨は、
「われわれはけっして報復を企図してはならない。
ことに敵国の人民に侮辱を加えてはならない。・・・
もしも暴行をもって敵の従来の暴行にこたえ、侮辱をもって彼らの誤った優越感にこたえるならば、恨みに報いるに恨みをもってすることとなり、永久に終止することなく、われわれ仁義の軍の目的ではない」
マッカーサーよりも早く、蒋介石は寛容の精神を訴えたのだった。



いっぽう、関東軍はソ連極東軍司令官に降伏、停戦協定を結んだ。
しかし、この協定はほとんど実行されず、ソレン軍は勝手に各地で武装解除を始め、協定にはもちろんなかった将兵のシベリア移送を強行した。



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自由、寛容、正義を説いた勝者①マッカーサー

2020年01月09日 | 昭和20年(終戦まで)
ミズーリ号の調印式。

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「日本帝国の最後」太平洋戦争研究会編 2003年発行 新人物往来社

自由、寛容、正義を説いた勝者

ミズーリ号での降伏調印式に、喜び勇んで参加したものは、敗者の中には無論いなかった。
が、その沈鬱なる雰囲気に包まれた日本全権団に、一条の光明を与えたのが、調印式前に行われた、予定外のマッカーサーのスピーチだった。
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ここに我々主要参戦国が参集して、平和克服の目的とする厳粛なる協定を締結しようとしている。
我々は相互不信、悪意、また憎悪の念を抱いてここに集まったわけではない。
むしろ戦勝国と敗戦国とを問わず、人類のより高き威厳に到達せんことを祈念するものである。
すなわち、自由、寛容、正義に対する念願の実現を志す世界が出現することを期待する。
これが私の熱烈なる希望であって、かつまた、全人類の希望である。
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と述べ、日本全権の調印が始まった。
加瀬(俊一)は、重光が上奏する報告書に、日本が勝っていたら、敗者をこれほど寛大に遇し得ただろうかと記した。
天皇は嘆息してうなずいたという。



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赤痢、焼け跡に猛威をふるう

2020年01月09日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年、食べもの・着るもの・住む場所、すべてが不足した夏。
伝染病が流行った。

父の話・2000年10月08日
「城見村の施設としてあった隔離所はウチでもおばあちゃんが一時はいっていた。
赤痢や疫痢になった人は普通家で看病していたが隔離するよううるさく指導され、連れて行くようになった。
軍隊にいるとき家に(一時)帰宅する場合”家に伝染病のひとはいない”ことを確認してからでないと帰れなかった。
看護婦・・といっても見習いにけのはえた程度の・・・もその際は常駐していて医者は適時にきて帰っていた。」





下記は福山空襲直後(=終戦前後)の広島県深安郡引野村の郷土史本。

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「戦争の中の子供たち」福山市引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行より転記する。

赤痢、焼け跡に猛威をふるう

空襲の4~5日後から赤痢を訴えるものが続出し、患者は谷地池の上手にあった隔離病舎に収容された。
戦災をこうむった被災家族は二重の悲しみを受けることとなった。

隔離病舎に収容された患者の看病は、ほとんど家族の者に任された。
十数名に一人くらいの看護人の数では手が回らない。
家族の健康な者が病舎に寝泊まりし、患者の食事から便の処理一切をの世話にあたった。
当時、医薬品は極度に不足しており、家族は八方に手を尽くした。

夏の暑さに加え、戦災による疲労、さらに食糧難のための栄養不足も多くの命が失われる要因になった。
体力がない子供や老人は、発病後2~3日で息絶えた。

当時でも赤痢に有効な薬はあった。
戦争が医療環境を悪くし、救える命を奪ったと言える。


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