しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満州族のいない満州国

2017年12月22日 | 昭和16年~19年
満州国は「五族協和」「王道楽土」がスローガンであったが、
それは勝手に日本が掲げた旗印であり、”和族楽土”で移民を奨励したことでも証明される。

中公新書「日中十五年戦争史」大杉一雄薯、より転記する。

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日本が「満州国」という国家を独立せしめ、つづいて清朝最後の皇帝を擁立したので満州族(漢民族でなくツングース族)が大多数を占める民族国家と理解されがちであるが、まったくの誤りである。
当時満州の人口は約三千万人といわれたが、その九割、二千七百万弱は漢民族であり、満州族は二百万たらず、その他朝鮮民族百万、日本人二十万、ロシア系十万で、満州族は一割にも満たなかった。

満州族は中国本土で清朝を開きてから、民族移動を行い漢民族と同化し、彼ら固有の言語、文字は忘れ去られた。
満州の奥地で、小さな集団をつくって狩猟をしていただけである。
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戦禍に耐えて「学童の生活」

2017年12月22日 | 昭和16年~19年
「美星町史・昭和51年発行」より転記。

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小学校では、敵国首相の肖像画を書いて、長針を突き刺し「打ちてし止まん」と朱書きしたポスターを教室や廊下に貼付け、校門の入り口に藁人形をしつらへて竹槍をそなえ、気合をかけて刺殺したりして敵愾心を養った。

朝礼時、「海ゆかば 水づくかばね・・・・」の短歌を朗読し、必勝の祈りをして教室に入った。
今思い起こしてみると、事の良否も、教育効果も論ずる余地のない戦争一色の毎日であった。
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ひさし髪

2017年12月22日 | 大正
明治の鹿鳴館時代から大正時代末まで”ひさし髪”が流行した。
写真は祖母と父、大正8年頃の写真。



この写真の2~3年後と思える家族写真も、やはり祖母は同じ髪形である。
母に確認すると、束髪の記憶(した、見た)は無かった。


「ふるさとの写真集・井原後月」より転記する。

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大正初期の風俗

若い女性に流行したひさし髪は今日からみると実に珍しい。
タボという毛束を入れて大きくふくらませた当時の最先端のモダンスタイル。
それまでは島田髷・銀杏返し・桃割れなどの髪か、後でくくる総髪型作業髪であった。
日露戦争後に流行った二〇三高地髷もみえる。
この写真は当時繁栄した生糸産業の製糸会社の女子従業員(女工)たち。
芳井村の中心産業であった。

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