しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の除虫菊・薄荷・養蚕の話

2017年02月11日 | 父の話
父は生前、茂平に養蚕農家はなかったと言っていた。
果物が盛んなこと、田んぼや畑に塩分があること、などが理由で
「養蚕」「葉たばこ」がみられないのが特徴と思える。

おばの話・談・2017.2.9

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畑ゆうたら「麦」「芋」「除虫菊」が多かった。

除虫菊はめんどくせぇ。(刈ったあとで)
菊の花を落とす。
植えるのは新涯の畑が多かった。
カド(家の庭)へひろぎょうた。
雨が降ったらいけんので畑には干さんようにしょうた。
どこの家にも除虫菊はつくりょうた。


薄荷は、

新涯に薄荷を植えて、吊るして乾かしょうた
ヒヤ(の軒下に四方を)干しとった。
仲買人が買いにきょうた。


八朔

はたびらではミカン、八朔を植えとった。
うんしゅうじゃあなかった。


(さつま)芋

おじいさんが俵にして、農協へ出しょうた。


養蚕

茂平も城見もおぼえておらん(養蚕はなかった)。

小平井へ嫁に来た時。姑が「飼ようた」ゆうてようた。
(嫁に行った時には、既に養蚕はしてなかった)
「その頃はのう、上座にも寝られん。畳をあげて・・」
寺で寝ょうたん?じゃろうか。
あれをせんとお金になるもんがなかった
養蚕をせんと食べていかれんようた

茂平の山に桑畑が一本あった。(弟の)まさしが「実を食べれる」、いってまさしと食びょうた。


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水落(みぞおち)の段々畑

2017年02月11日 | 父の話
この話は、どこにでもある瀬戸内地方の昔話。
管理人の実家も、海から山へ向かった段々畑でミカンや麦や芋を作っていた。

ここで農船がでていくるが、おばの時代は個人所有で「こまい船」
管理人の時代は「おおけえ船」で、三軒共同所有だった。


おばの話・談・2017.2.9

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(水落の畑に)行きしなにゃあ山をとおて、
帰りは海をとおて戻りょうた。

(水落の畑には)麦を植えて
麦を刈った後にゃあ芋を植ようた。

(水落の畑は、山の)上から下まであった。
波があるところまで畑じゃった。

麦を刈った後、株のあいだに(芋の)苗をうようた。株はうがさんで、そのままにしょうた。

ゲシにはお茶を植えとった。
お茶は買わずに、そのお茶を飲みょうた。(買えば)お金がいるけぇ。

麦を刈った後は、畑にひろげていて
実だけを唐人袋にいれて、船で持って帰りょうた。


船は、こめい(手漕ぎの)船じゃった。
こもうて一軒でいっこ(ひと船)じゃった。


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(以下は姉の話)

お父さんが福山か尾道まで買いに行った。

(管理人が乗っていたのは、この船の事のようだ。
茂平波止に繋がれた船では、いちばん巨船だった。
漁船のようにエンジンは無いし、形はだるまに似た、格好はよくない船だった)


談・2017.2.9
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昭和初期の茂平の女の子

2017年02月11日 | 父の話
女の子も元気がえかったようだ。

おばの話 談・2017.2.9

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小学校の時は毎日泳ぎにいきょうた。
浮き輪が無いけい、
利三郎おじいさんが、桐の木を切ってきて
皮を剥いで、
鑢ですって。

みんな桐ノ棒(きりんぼう)じゃった。

戻りは、トウガキ畑の池にドボンと飛び込んで
(身体に付いた)潮をおとしてから帰りょうた。

(管理人の時代は共同井戸があり、そこで釣瓶で水を汲み潮をおとして帰っていた
、危険で怖くなかったか?の問いに)
(女の子)みんないっしょだった。

オトコンコは、
「今日は神島迄行くか」
「競争していくか」
ゆうほど元気がよかった。


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