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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

赤線の女⑦ 玉の井の銘酒屋

2017年02月08日 | 昭和31年~35年
永井荷風の「墨東奇譚」の舞台、玉の井は遊郭ではない。
戦後は赤線に指定されたが、銘酒屋街(めいしゅやがい)といわれ、曖昧屋(あいまいや)とも呼ばれた。
その意味は酒を売るのか、料理を売るのか、女を売るのか、はっきりしないからだそうだ。


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する。

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銘酒屋は酒の酌をする女として、2名までの売春婦を置くことを許可されていた。
他に1名子守・女中の名義で女を置けた。
そういう小人数の売春組織だから何々楼という建物とはまるっきり違う小部屋で営業していた。
通常の建て方は二階に2~3部屋、四畳半と三畳二間があった。そこが売春婦たちの寝る所だった。
遊郭にいる売春婦は公娼で、政府の許可を得て売春していた。
これに対し、銘酒屋の売春婦は私娼である。しかし、銘酒屋の売春婦はお目こぼしだった。
抱え主がいての管理売春は、処罰されないのが原則だった。

昭和5年頃の玉の井は、
娼家500軒、1.000人くらいの売春婦がいた。
朝の10時から深夜まで客を呼んでいた。
ひやかしが一日8.000人位。
そのうち、客が3.000~4.000人。
ショートタイムは30分~1時間、50銭~2円。
泊まりは2~5円。

全体的に言って値段は吉原の半額くらいだった。
女たちは1日平均3人の客をこなしていた。
2円は大工等職人の日当だった。

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