しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和19年中国鉄道のこと

2017年02月02日 | 昭和16年~19年
井笠鉄道は鉄道廃止後も社名が「井笠鉄道」だった、
下津井電鉄も鉄道廃止後、下電バスでなく、社名は「下津井電鉄」。
中国鉄道は鉄道売却後は社名を「中鉄バス」と変更した。
鉄道事業は廃止したのでなく国策で、国鉄に売却(譲った)した。

明日の“節分”には、最上稲荷に行って豆をひろう予定。

最上稲荷への道は、かつて中国鉄道の鉄道が通り
最上稲荷から龍王山には、かつて中国鉄道のケーブルカーがあった。
レールは、戦争に供出され両線は廃止された。

「岡山百年史上巻・戦時下の鉄道」より転記する。

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昭和12年、わが国は戦時体制に移行し鉄道は陸上交通機関の中心として強化されることとなった。兵員及び戦時輸送は窮迫の度合いを高めた。
政府は満州を含めた交通体系の全面的な見直しを図った。
こうして東京~下関間に広軌による新幹線(いわゆる弾丸列車)の増設が計画された。
岡山県内は、現岡山大学医学部の南を西へ庭瀬に向かっていた。この路線は昭和17年1月承認された。
新岡山駅は現大元駅西口ふきんに盛土高架で計画された。しかし戦局が不利になり、昭和18年計画は中止された。

一方、軍事上の必要から私鉄の買収が論議されるようになり、幹線の連絡線としての意味を持つものとして
岡山~津山口
岡山~西総社
備中高松~稲荷山
計79.7kmを営業していた中国鉄道が買収対象となった。
幹線の一部が私鉄に残されていて、地元では国有化運動をくりひろげていた。
昭和19年6月、中国鉄度は明治31年の開業以来50年の歴史に幕を降ろしたのであった。


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赤線の女⑤ 公娼制度廃止法案

2017年02月02日 | 昭和31年~35年
遊郭廃止は60年前で、星島先生たちの法案は100年前のこと。
100年前の法案の反対理由は目くそ鼻くそで、いくらか笑わせる。
性の事は法律でしばっても、あまり解決しない面がある。


「岡山市百年史上巻」より転記する。

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大正末期、花柳病予防案が上程されようとするころ、公娼制度廃止が大正14年2月、星島二郎ら5人を中心に衆院委員会で審議されたが否決になった。
それは全国の私娼4854人中検診の結果、有毒者が約半数の2188人あり、公娼よりも害が多いということにあった。
昭和2年2月には「公娼制度廃止法案」阻止のため、県下の貸座敷業者組合代表者が上京、新吉原同業組合での阻止の大会に参加した。




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赤線の女④ 中島病院

2017年02月02日 | 昭和31年~35年
「岡山市百年史上巻」より転記する。

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大正15年のなかば、国会で「花柳病予防法案」が論議されだした頃、県下遊郭数は9ヶ所、娼妓924人であった。
そのうち市内の東西中島遊郭について岡山東警察署の調査では、娼妓485人、花柳病患者は延べ396人、検診は103回行っており、一回平均4人弱の患者を発見している。

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空襲下の御真影(ごしんえい)①岡山空襲・深柢国民学校

2017年02月02日 | 昭和20年(終戦まで)
火事や地震や災害の時、人は(人に限らず生き物すべて)真っ先に逃げ出すものだが、
学校にある「ご真影」は人の命よりも大切なものであった。
アメリカ軍の日本の都市空襲は夜間がほとんどであったため、
逃げ惑う児童の生命を無視して、写真を大事に抱きかかえる校長先生、という汚点を歴史に刻むことから免れる事ができた。

それに、震災から守るために建てられた奉安殿は
なぜ空襲に弱かったのだろう。締まらない話だ。

「岡山県教育史 続編」より転記する。

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空襲下の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には市内中学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。
しかし準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。

空襲時の悲壮な状況を、市の中心部にあって最も災害のひどかった深柢(しんけい)国民学校についてみる。
6月28日、空襲は熾烈になりつつあった。翌29日未明の空襲、数発の焼夷弾で全校舎は一瞬炎に包まれ、運動場も油脂の飛沫で一面火の海と化していた。
学校の御真影は当日の宿直員井上訓導がガッシリ背負った。
勅語謄本と持ちにくい市役所の御真影箱は小堀・近藤両訓導が交替で持つことにした。
防空壕からいっせいに飛び出して西門に走った。
西も東も燃えている。南だ、4人一丸になって駈けた。
前方の見通しがきかない。煙の中を眼をつむって駈けた。
防火用の水で喉をうるおした。前も横も焼夷弾が落ちている。
道路べりに腰を落としてすすり泣く娘、息絶えた老人にすがって泣く家族、幼児を抱いて避難する婦人。
ふっと家族を思った。空襲は止んだ。


午前6時最後に校庭の一遇に立つ相撲場が引火類焼して、僅かに奉安殿を唯一つ残したのみである。
敵機襲来と同時に校長はじめ職員多数駆けつけたが、市の中心部に位する本校は下す策もなく、焼け落ちるのを告別するかの如く直立していた。
やがて、雨になった。


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