しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

赤線の女⑧ 管理売春の仕組み(玉の井)

2017年02月08日 | 昭和31年~35年
遊郭には「籠の鳥」の歌が重なる。


あいたさ見たさにこわさを忘れ暗い夜道をただ一人
あいに来たのになぜ出てあわぬ僕の呼ぶ声わすれたか
あなたの呼ぶ声わすれはせぬが出るに出られぬ籠の鳥


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する。

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玉の井の私娼の年齢は12歳から50歳くらいまでで、17歳~20歳が一番多かった。
ほとんどが貧しい家の娘で、前借金によって売られてきたのである。
東北地方で冷害・凶作があると新顔の若い娘が増えた。

前借金の値段は5年契約で400円以下だった。大卒月給の8か月分である。

管理売春は、抱え主が管理をしていたというだけではない。
私兵として土地のヤクザが管理を手伝っていた。
女が逃亡すればヤクザが手分けしてさがしだす。そして拷問にかけて恐怖心を植えつけた。

警察に逃げ込むと、「借金を踏み倒して逃げるのはよくない」といって連れ戻す役目をした。
警察とヤクザは仲間同士だったといってよい。

400円くらいの借金は、すぐに返済できそうに思えるが、そうはいかない仕組みがあった。
よほど利口で、売れっ子で、健康な女でないかぎり、借金は減らないのである。

衣服代は女の負担、市価より高く抱え主を通して売りつけられる。
入院代も自己負担。
食費も取られるが比較的高い。
その他、
チリ紙に至るまで高く売りつけられる。
それで、かせいでも借金の増える子が多かった。
そうなると住み替えということになった。

新しい店に買われていって、そこからの前借金で今までの借金を払う訳である。
きのうまで吉原にいた女が玉の井にきて、玉の井の女が新宿にいく。
そして、丈夫なあいだはしぼりとられて、使い捨てにされるのが大方の売春婦の運命だった。


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赤線の女⑦ 玉の井の銘酒屋

2017年02月08日 | 昭和31年~35年
永井荷風の「墨東奇譚」の舞台、玉の井は遊郭ではない。
戦後は赤線に指定されたが、銘酒屋街(めいしゅやがい)といわれ、曖昧屋(あいまいや)とも呼ばれた。
その意味は酒を売るのか、料理を売るのか、女を売るのか、はっきりしないからだそうだ。


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する。

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銘酒屋は酒の酌をする女として、2名までの売春婦を置くことを許可されていた。
他に1名子守・女中の名義で女を置けた。
そういう小人数の売春組織だから何々楼という建物とはまるっきり違う小部屋で営業していた。
通常の建て方は二階に2~3部屋、四畳半と三畳二間があった。そこが売春婦たちの寝る所だった。
遊郭にいる売春婦は公娼で、政府の許可を得て売春していた。
これに対し、銘酒屋の売春婦は私娼である。しかし、銘酒屋の売春婦はお目こぼしだった。
抱え主がいての管理売春は、処罰されないのが原則だった。

昭和5年頃の玉の井は、
娼家500軒、1.000人くらいの売春婦がいた。
朝の10時から深夜まで客を呼んでいた。
ひやかしが一日8.000人位。
そのうち、客が3.000~4.000人。
ショートタイムは30分~1時間、50銭~2円。
泊まりは2~5円。

全体的に言って値段は吉原の半額くらいだった。
女たちは1日平均3人の客をこなしていた。
2円は大工等職人の日当だった。

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