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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

珍しい地神、「社稷」 (茂平の新土手)

2025年07月06日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

”地神”と刻まれた円形の石碑は全国無数の村々に存在しているが、
”社稷”と刻まれた地神は珍しい。

大正時代の末期に数基建てられたようだ。
地神が建てられたのは江戸末期から明治末で、
社稷は地神建立の最期を飾るもののようだ。

なお備中備後は五角形の地神が多いのがこの地方の特色となっている。

 

 

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「城見のあゆみ」 城見地区まち協  2017年発行


地神(社稷) 

「社稷」は 「しゃしょく」と読みます。 
 「稷」 は穀物の神を意味する言葉でした。 
土地とそこから収穫される作物が国家の基礎であるという考え方です。 
 「地神」として、あるいは木や石の5角柱に農耕に関わる5柱の神の名を刻んで丁寧に祀ったのです。
 春には、その年の豊作を祈念し、秋には、収穫を感謝する祈りをささげるわけです。

「社稷」 として祀るのもその1つの形なのですが、 極めて少ないのです。
聞き及んでいる範囲で書き上げてみます。 
茂平に3基、 用之江に1基、福山市大門町に5基、 福山市加茂町に1基 笠岡市有田に1基と、
わずか11 基だけなのです。
どうやら、大正時代の末に福山市東部か岡山県笠岡市の西部に、「社稷」が気に入った神がおいでになったようなのです。 
旗涯地のだけ記年を認めることが出来るのですが、それが大正12年(1923年) 12月なのです。

 大正12年なら1923年で、たかだか90年ほど昔のことで、調べればいろいろなことが分かるだろうと思ったのですが、
ほとんど何も聞き取ることができないのです。
記録したものを残し、後に伝える必要性が大いにあると考えました。


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地神

「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

地神講(あるいは社日講)

地神を講組織で祭る所が各地にある。
春と秋の社日に祭るのが一般的である。
地神講では地神とか地神塔という文字を彫った石碑や石塔、あるいは五角形の石柱に神々の名を刻んだものを神体のごとく扱っている場合が多い。

「江戸末期から明治40年ごろまでに地神とほった石を立てる風が県内に盛んであったらしい。
それまでは石のカマを作って祀った。

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茂平の自然災害②関東大震災ほか

2025年07月06日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

大正12年・関東大震災

「笠岡高校70年史」という本には、大12年の関東大震災の時、笠岡の町がそうとう揺れた思い出が載っている。
当時父は幼かったが、茂平も揺れて家の庭に常夜灯の宝珠の部分が転がり落ちてきたそうだ。

 

父の話・2000年11月23日

落ちてきた夜燈の石

七つの時じゃ。小学校へあがるときじゃ。おべえとる。
その時に夜燈の石が道に落ちそしてウチの庭(カド)に落ちてきた。
そわぁに揺れたんじゃ。
土台基礎はしゃんとしていたがテッペンはのせとけただけなんで、落ちた。
他に茂平に被害は無かった。

 


 
昭和14年・備中日照り

 

その年、茂平では八幡様で雨乞いの祈祷して火を焚いたそうだ。
山口では、ため池の工事が始まった。「奥山池」


(奥山池は昭和18年に完成した。 笠岡市山口 2020.4.11)


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「城見のあゆみ」 城見地区まち協  2017年発行


茂平の八大龍王です。 
龍王は通常山の頂上近くちょっとした広場に祀っていて、 いざという時には、「千把炊き」 とか 「千貫炊き」とか言われるように
草木を炊きあげて雲を呼び雨を降らそうというものですが、 
茂平では、八大龍王ということで8本の石を海岸に横たえ、雨がほしいときは寝ている石を立ち上げて、 
龍王の怒りをかって雨にありつこうというものです。 

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「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行

大門町東谷

昭和12年8月27日午後11時本村に70名の充員召集令状来る。
昭和14年村内の旱魃
5月田植えの際はかなり池の貯水もあり、田植えも完了せるに、
其の後天候引き続き旱天にて遂に出穂期にも降雨なく、肥料は殆ど全部に渉り施肥ずみなりしも出穂せず。
野々浜、河口池掛及び其の他少々の収穫を得たり。
全村にて91町歩の免租地を出せり。
故に全村にて食料を一か年完全に食する家僅かに数戸なり。
対策として土木事業即ち、池の修繕にて就労す。
男一人 1円20銭~1円30銭
女一人 80銭~90銭
野々浜森池は此の年新たに築造されしと聞く。

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「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行

森池

昭和14年頃から工事が始まった。
毎日50人位の地元の人が、朝の8時から晩の5時ごろまで働く。
補助金か何かあったのだろう、成人男子で1日1円20銭の手間賃が出た。
婦人や中学生はそれより安かった。
皆人力で、つるはしやモッコ、トロッコなどで作業した。
工事の大半は築堤に費やされ、4反ほどもある堤防の敷地の上に土を運んではつき固め、また土を積む、という作業を繰す。
地固めには松の胴切りに柄を二本付けたのをもって、土をつき固める。
堤防の核として、水の漏れない粘土質の土を使った「千切り(ちぎり)」を入れて築いてある。
森池が完成したのは昭和16年だったと思う。

ここで子供らはよく泳いだ。
わしは子供の頃、6尺ふんどしを垂らしたのを着けて、海の樋門の欄干から外海に飛び込みをしたりしてえっと泳いだ後、
タオルをもって森池に入り、立泳ぎをしながら洗って塩を落としたものだ。

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「福山市多治米町誌」 多治米公民館  平成5年発行

連隊41連隊
昭和14年の旱魃

41聯隊でも節水を実行。
1日1食はパン食とし、洗濯、水浴のため芦田川上流大渡瀬橋まで度々行軍をしたという。

帝国染料も操業中止となり、井戸を掘り、ポンプ増設した。
新涯のものは、一合の米も取れずに全部買って食べねばならなかった。

 


平成30年の「2018西日本豪雨」

ヒルタ工業で6人生き埋め、そのうち2人死亡。

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