場所・千葉県館山市宮城
訪問日・2018.8.3
初めて千葉県のJR館山駅に降りたら、
轟音が聴こえ、自衛隊機が見えた。
今館山は「海上自衛隊最大のヘリコプター基地」だそうだ。
館山は江戸時代の開国前後から、江戸湾の見張りをする場所に位置する町だった。
館山海軍航空隊・館山海軍砲術学校・赤山地下壕
海軍の軍事施設が集中した館山
関東大震災による海底の隆起が生み出した航空基地からは、
真珠湾攻撃のパイロットが育っていった。
海軍初のパラシュート部隊が練成された館山海軍砲術学校・・・。
数々の戦争ドラマを生み出した戦跡が館山には存在している

昭和5年(1930)に、
5番目の航空隊として開かれたのが館山海軍航空隊である(現・海上自衛隊館山航空基地)。
略して館空(たてくう)と呼ばれた。
埋立地にある海上基地として、海からの強い西風を利用して空母からの離発着を想定した飛行訓練に向いており、真珠湾攻撃のパイロットの多くが訓練を受けたといわれる。
昭和20年2月には、南房総を米軍艦載機延べ1.000機による大空襲があった。館山鶏群航空隊も大被害を受けている。
これは硫黄島の後方支援基地を叩く作戦で、19日からは硫黄島上陸作戦が始まった。
戦争末期には本土決戦に備え、房総半島の要塞化が進むられたが、館空周辺でも戦闘機用掩体壕や地下壕の建設が急ピッチで進められた。
現在その時に造られた掩体壕1基残っているほか、
通称「赤山」と呼ばれる標高60mの山の内部に、総延長2kmにおよぶ地下壕が現存している。
赤山地下壕として一部が公開されているが、司令部、兵舎、兵器貯蔵庫から病院、発電所なでさまざまな施設があったといわれ、館空の機能をそっくり地下に移動させ、徹底抗戦する意図で掘られたものであろう。
「戦争廃墟」 石本馨著 ミリオン出版 2006年発行

館山市役所HP
航空隊
昭和16(1941)年に、日本とアメリカが戦争をはじめると、館山海軍航空隊は、東京、東京湾、太平洋岸を守るための基地として使われました。
戦争が終ったあとに、日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦の時には、零戦、紫電など41機の飛行機しか残っていませんでした。
地下壕
赤山地下壕は、合計した長さが約1.6kmと、全国的にみても大きな壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
この赤山地下壕は5~10mと狭いうえ、計画的に掘られたとは考えにくく、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後に建設されたのではないかと考えられています。
アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終りの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは、壕内にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務をおこなったという体験や、病院の施設があったなどの証言からうかがい知ることができます。

地下壕は地層がむき出しで、見学は地質学に関心がある人にも適している。
工事は手掘りを意味していて、
工業力の差を実感するというよりも、これで米国と戦争をしていたことに当時の指導層の無責任を思う。
真夏に訪問したが、洞窟と変わらないひんやり感があった。
訪問日・2018.8.3
初めて千葉県のJR館山駅に降りたら、
轟音が聴こえ、自衛隊機が見えた。
今館山は「海上自衛隊最大のヘリコプター基地」だそうだ。
館山は江戸時代の開国前後から、江戸湾の見張りをする場所に位置する町だった。
館山海軍航空隊・館山海軍砲術学校・赤山地下壕
海軍の軍事施設が集中した館山
関東大震災による海底の隆起が生み出した航空基地からは、
真珠湾攻撃のパイロットが育っていった。
海軍初のパラシュート部隊が練成された館山海軍砲術学校・・・。
数々の戦争ドラマを生み出した戦跡が館山には存在している

昭和5年(1930)に、
5番目の航空隊として開かれたのが館山海軍航空隊である(現・海上自衛隊館山航空基地)。
略して館空(たてくう)と呼ばれた。
埋立地にある海上基地として、海からの強い西風を利用して空母からの離発着を想定した飛行訓練に向いており、真珠湾攻撃のパイロットの多くが訓練を受けたといわれる。
昭和20年2月には、南房総を米軍艦載機延べ1.000機による大空襲があった。館山鶏群航空隊も大被害を受けている。
これは硫黄島の後方支援基地を叩く作戦で、19日からは硫黄島上陸作戦が始まった。
戦争末期には本土決戦に備え、房総半島の要塞化が進むられたが、館空周辺でも戦闘機用掩体壕や地下壕の建設が急ピッチで進められた。
現在その時に造られた掩体壕1基残っているほか、
通称「赤山」と呼ばれる標高60mの山の内部に、総延長2kmにおよぶ地下壕が現存している。
赤山地下壕として一部が公開されているが、司令部、兵舎、兵器貯蔵庫から病院、発電所なでさまざまな施設があったといわれ、館空の機能をそっくり地下に移動させ、徹底抗戦する意図で掘られたものであろう。
「戦争廃墟」 石本馨著 ミリオン出版 2006年発行

館山市役所HP
航空隊
昭和16(1941)年に、日本とアメリカが戦争をはじめると、館山海軍航空隊は、東京、東京湾、太平洋岸を守るための基地として使われました。
戦争が終ったあとに、日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦の時には、零戦、紫電など41機の飛行機しか残っていませんでした。
地下壕
赤山地下壕は、合計した長さが約1.6kmと、全国的にみても大きな壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
この赤山地下壕は5~10mと狭いうえ、計画的に掘られたとは考えにくく、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後に建設されたのではないかと考えられています。
アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終りの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは、壕内にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務をおこなったという体験や、病院の施設があったなどの証言からうかがい知ることができます。

地下壕は地層がむき出しで、見学は地質学に関心がある人にも適している。
工事は手掘りを意味していて、
工業力の差を実感するというよりも、これで米国と戦争をしていたことに当時の指導層の無責任を思う。
真夏に訪問したが、洞窟と変わらないひんやり感があった。
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