しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

良寛さん (円通寺公園)

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市玉島柏島   円通寺公園







良寛

談・水上勉


玉島は、なんともいえないのどかなところなんです。
山は、いまはほんの公園です。
あそこを円通寺山といいましても、ほんの小高いものです。

越後の国上とか弥彦とかいったような、しかも北の海がすぐそこにずり落ちていて、波しぶきがかかるといったような険路がある・・・・・。
出雲崎なんてのはまた特に、黒縄の道といってもいいくらいの帯のような、険しいところでございますね。

だから、そういうところに育った良寛さんが、二十代で、のどかな南国で、全く越後と風光の違う、おだやかなところにいかれた。
そこで修業なすった長い年月というのが、どこかしらん子どもと遊ぶのどかな人をつくりあげていると思うんです。

国仙和尚が下さった詩がございますね。
”お前は立派な境涯になった。
わたしはおまえに何かやりたいと思うけどもやるものがないので、
裏へいって木を一本切ってきた。
これをおまえ、杖にして旅に出よ、
眠たいときはこれをどっか壁に立てかけとけ”
という詩なんでございます。


・・・・


それから十年以上不明なんです。
行方不明です。
34,35歳の時出雲崎の町はずれの狭いところに破れ堂があり、不思議な人がいる。
乞食をして歩いて、お米が余ればスズメにくれてやっておる。
のぞいてみると、机が一つあり、書物が一冊あるきり、壁には自分の歌とか詩を書いて貼り付けている。
どうも、昔、橘屋を出て行った栄蔵さんに似ている。

良寛さんの思想は一貫していて、
伽藍を持ったり、お寺に座ると坊さんというものは堕落する、
真の禅生活というものは、やはり放浪乞食にあると。
腹が減れば托鉢してそれを得て、そして暮らせばいいんだ、と。
そういった思想の実践をやられたように見受けられます。

良寛さんもむしのいい人だったんだな。なぜ働かなかったんだろう。
わたしは、働いて自分のとるものをとって、余計にとれたら恵むという、それが清貧だと思うんです。
もろうて逼塞なら誰だってやりますよ。
わたしはつくって逼塞というのがやはり一番尊い。
「一日なさざれば一日食らわず」、それがいいと思うんです。



・・・・


裏を見せ表を見せて散るもみじ


亡くなるときは、死とともに自分の生が全部消えていく。
どことなくおだやかでいいですね。
山と話し、
川と話し、
雲と話してござる人には、これはもう相撲とれません。
フッとそんな気がするんです。



「NHK歴史と人間」 日本放送出版協会  昭和53年発行











撮影日・2019年4月6日




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