戦国時代に有名な”三木の干し殺し”、”鳥取の渇え殺し”。
これは、天正時代の出来事で450年以上前の話。
それが、昭和時代の日本で再現されようとしていた。
日本列島全体を封鎖され、
人・食糧・燃料・物資の移動ができない。
いっぽう封鎖された国内では、
労働力なく、肥料なく、農具なく、食糧生産が制約された。
中国やアメリカやソ連と戦う兵の食糧が、昭和20年秋には底をつき。
さらに、
昭和21年はそれ以上の食糧危機を迎え、兵も銃後も飢え死の可能性が高かった。
おそらく、
食料不足で暴動が起き、敗戦だったと思える。
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「ふるさとの戦争」 青木 暢之 中国新聞 1995年発行
決戦下「野草も食糧に」
国内の食糧事情は窮迫していた。
主食の米はまず軍需食糧として確保される。
台所では米に変わり、サツマイモ、ジャガイモ、雑穀が主食に昇格する。
代用食はイモばかりではない。
20年になると情報局発行の『週報』は、
「野草も決戦食糧に」と題した特集を繰り返す。
アカザ、イノコヅチ、ヒユ、スベリヒユ、シロツメグサ、ヒメジオン、ツユクサ。
この七種は「新選夏の七草」である。
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「日本の食はどう変わってきたか」 原田信男 角川選書 平成25年発行
日中全面戦争の長期化によって物資不足が深刻化し、
最低限度の食料さえも自由に入手できる状態にはなかった。
昭和14年の木炭からはじまり、
翌15年には繊維製品やマッチの他、
米・麦・砂糖・大豆などの生活必需品が配給制となっていった。
この年には朝鮮・西日本の干害もあり、日本人が主食としてきた米そのものの供給が厳しくなった。
白米の禁止と七分搗きの強制、これに麦・豆・芋の混食。酒やビールの製造制限が実施された。
8月1日の興亜奉公日には「ぜいたくは敵だ」といった立て看板が並ぶなど、
贅沢追放が魔女狩り的に広まっていった。
翌、昭和15年「最低の生活、最高の名誉」を標語とし、
国民生活を最低限度に切りつめることを強調した。
太平洋戦争がはじまると、栄養状態にまで悪影響を与える状態となった。
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飢餓とたたかう「決戦食」
茶殻も野菜代わりに
飢える銃後
厚生省は昭和16年9月、米の供給減にともなう新たな「日本人栄養要求量」の最低限度を、成人男子1人1日熱量2.000カロリー、蛋白70gと発表した。
しかし昭和19年になると、この最低限度を下まわる1927カロリー、45.4gにまで低下した。
大阪府の場合、15歳の平均体重は17年45.4k、18年44.7g、19年42.8gと減少していった。
政府は食糧不足に対する抜本的な解決策よりも、「工夫が足りない」「我慢が足りない」として、
米や代用食以外のものを主食化しようという「決戦食」を喧伝した。
また「日本に栄養不足絶対になし」とする栄養学者も現れた。
「日本人の栄養は1.000カロリーを割っても栄養学的にはまだ大丈夫。
ようするに日本人は『玄米と味噌と野菜少々』あれば、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく定期で頑張れるのです」
(杉靖三郎『婦人倶楽部』昭和19年6月号)
と主張する学者もいたのである。
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