goo blog サービス終了のお知らせ 

しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年8月8日”福山空襲”⑦福山には赤痢が蔓延した 

2021年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)
昭和20年夏、
三吉町のおじ(父の弟)の家では、家は無事だったが、まだ女学校の生徒だったおじの義妹が赤痢で死んだ。
茂平でも赤痢が流行り、家では祖母と曾祖父の二人が感染した。
用之江の隔離病舎へ入り、母は子をおんぶして世話をしに通ったそうだ。
祖母は治ったが、高齢の曾祖父は死んだ。



「広島県戦災史」  広島県 第一法規出版  昭和63年発行 

忘れることのできないことは、
空襲後に多数の腸チフス・赤痢患者が発生したことである。
すでに腸チフスと赤痢は空襲前に発生し、市立福山病院には空襲時に腸チフス11人、赤痢12人が収容していた。
しかし、空襲によって家を失い水道が止まり、
「夏の暑さに加えて戦災の疲労が重なり、さらに栄養不足が手伝っ」て、チフス・赤痢の大流行となった。
戦災後の死亡者数が特に多いのが注目される。
栄養不足に加え医薬品の極度の不足によるものであった。
「牛に飲ませる下剤すら投薬される」ほどの医薬品の極度の不足があった。

三吉町の避病舎が焼けたので患者は蔵王町の病舎や千田村隔離病舎を借用して収容し、
沖野上町廃川地の元軍用施設バラック仮病舎にも収容した。
11月末になってやっと鎮静化したのである。




「福山市引野町誌」 引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行 

敗戦と物資不足下、筆舌では尽くし難い苦難が被災者をしめつけた。
その中でも最も悲惨を極めたのは引野村を襲った赤痢禍で、被災に追い打ちをかけるように発生した。
患者たちは、医療施設も薬品も整わない隔離病舎で、専ら家族による看護を受けなければならなかったのである。
どの家もどの家も総なめにして患者を出した。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昭和20年8月8日”福山空襲”⑥福... | トップ | 昭和20年8月8日”福山空襲”⑧空... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

昭和20年(終戦まで)」カテゴリの最新記事