しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」小倉~下関~下家室

2021年09月15日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月



われわれは旅館で1時間半ほど足を留め、日本食をとり、
すっかり元気を回復して再び小倉を発った。
二人の重臣は、2艘の小舟が持っている海岸まで送ってきた。
1.000人以上の一般の見物人で埋まり、行列の両端にでひざまずき、
たいへん静かに座っていた。
そして見物人のうち誰一人立ち上がろうとする者もなく、また、わざと音をたてたりする者もなかった。
われわれは九州島を後にした.



(九州から見る本州 2015.2.20)





私が乗った舟は、正しい航路をはずれ、しばしば浅瀬に乗り上げたので、もう一方の舟より2時間も遅れ、したがって5時間を費やした。
海上3里を下関に渡った。





(本州から見る九州 2015.2.20)



そこにはわれわれが乗る大きな船が5日前に到着していた。
その船でさらに海上を大坂まで旅をつづける為である。

下関の町は山岳地帯の麓の有名な港に近接していて、長門の国にあり、日本島の西端にあり、日本島は52の国から成り、二つの大きな街道が縦貫している。
一つの街道は江戸から奥州という最果ての地まで延び40里以上になる。
もう一つは、下関から大坂・京都を経て南の海岸線に沿って江戸まで延びている。大坂まではたくさん山があるため海路を行くことが多い。

下関は400~500戸の町で、非常に長い通りと、横丁や裏通りに家が建っている。
ここにたくさんの雑貨店があり、毎日東や西から着いた船乗りが種々の必要品と食料品を買うことができる。
港に停泊している船は200艘ほどであった。
また、ここには石を美術的に加工する者がいて、近所の山地から灰色や黒色の石を切り出して、硯や小箱などを作る腕をもっていた。




2月18日

逆風のため出港できなかった。
2人の町役人に案内され有名な阿弥陀寺を見物し、面白かった。



(赤間神宮 2009.12.13)


一人の若い僧がわれわれを出迎え、広間に連れていった。
そこには中央には銀色の織物の敷物が敷いてあった。
檀の上には水死した皇子の像が置いてあった。
この像に対して日本人は頭を地面にすりつけて拝む。
僧侶は燈明に火をともし、金張りの襖に描かれた皇室の一族の人々の、
その悲しい物語を全部話してくれた。
われわれはこの寺院に敬意を表し、1分金を喜捨してからここを去り、宿舎に戻った。
日本風の食事をとり酒を飲んで、入浴して、夕方船に戻った。





2月19日
早朝、大坂に向け海上旅行の途についた。
最初の旅程は長い距離で、西風が続けて吹かなければ、出港するすることができなのであって、そのうえ途中には向(むこう)と下松の以外に港がない。


夜間停泊するためにいろいろな港があるし、また風の為に航路が左右される。
数人の船頭は私に次のような里程を示した。

下関から上関の島・港と村まで・・・35里、
そこから蒲刈と村まで・・・20里、
そこから鞆まで・・・18里、
室の港まで・・・20里、
兵庫まで・・・18里、
そこから大坂まで・・・13里で、計134里となる。

しかしほかの里程では、
下関から上関まで・・・35里、
家室まで・・・7里、
御手洗まで・・・18里、
鼻繰(はなぐり)まで・・・5里、
鞆まで・・・10里、
白石まで・・・3里、
下津井・・・7里、
牛窓・・・10里、
室・・・10里、
明石・・・13里、
兵庫・・・5里、
そして最後に大坂まで13里で、合計すると136里。
上述の地点はすべて安心して停泊することができる。


下関を出港すると、数え切れぬ島がある。
真のうちには山の頂まで耕されているものもあるが、また全く耕作されず、無人のものもある。
私は磁石の偏角が東に向かって5度あることに気が付いた。
日本の本土は航行中つねにわれわれの左手の、一ないし二・三里の所にある。
四国島は右手にある。

祝島があらわれ、笠戸山ががすぐ近くに見えた。


(笠戸島 2014.7.12)


(大津島 2014.7.12)




左手の本土に室津の町があり、右手には上関の村がある。
室津も上関も各80戸ので、上関は同じ名前の上関島にある。
両方とも長門国に属し、港の前の岩礁には木造の灯台があり、船頭たちは夜間それを目標にしている。




(周防大島 2013.4.25)




われわれは上関から順調に7里進み、地の家室すなわち下の家室に着いた。
われわれは今日西風が吹き続いたので42里を航海して、暗くなった夜の7時半にたくさんの他の船と並んで岸の近くに錨を下ろした。
ここには約100戸の農家と、数は少ないが立派な家が建っている。
錨を下ろすには好都合のよい港なので、海上航行者の間では大変よく知られている。




(周防大島 2013.4.25)


(周防大島 2013.4.25)


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