しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」長崎~佐賀~小倉

2021年09月15日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」第七章 長崎から小倉まで、陸上の旅




(長崎市出島 2012.5.9)



第七章 長崎から小倉まで、陸上の旅
1691年(元禄4)2月13日出発





(長崎市出島 2012.5.9)




2月10日
公使は二人の町奉行にいとまごいを乞う。


(長崎市出島 2012.5.9)







2月13日
二人の奉行は盛装して出島のわが商館を訪問した。
饗応のあと、島の外まで連れていかれ、別れを告げて出発した。
大村湾に着き昼食。
大村侯の家老に会った。主君の名において、無償であらゆる援助を惜しまずと、遊船を提供した。


(大村湾)







2月14日
夜明けと共に出発した。
俵山の麓を回ると、大村領から小さな嬉野領に入った。
藩主は寛大で100名の人員を要求したのに対して、200名の差し出して、いっそう満足させた。
湯治場があり、湯には匂いも味もなかった。
嬉野から2時間、塩田村に着き、昼食を取った。
この土地では一種の壷が焼かれ作られている。


(佐賀県嬉野市塩田津 2014.1.11)









(佐賀城 2014.1.11)


2月15日
肥前の城下町佐賀を通り、一日中気持ち良い旅をつづけた。
丘のうえには二羽のコウノトリがとまっていたが、ヨーロッパのものより小さかった。





(久留米市筑後川 2016.2.14)


(久留米城 2016.2.14)


右手に、1里離れた白壁の久留米城が見えた。




2月16日
鳥栖を通り山家に着いた。そこで1時間の昼休みをとった。
夕方には飯塚に着き、そこで泊った。
飯塚の町は200~300戸から成り、小舟がたくさん並ぶ向こうにある。
この川を他の人たちは負われて越えたが、私は許しを得て細長い橋を渡った。


(飯塚市 2017.2.14)



(直方市 2017.2.14)


(直方市 2017.2.14) 




2月17日
夜明け前に、松明をかざして出発した。
途中には炭鉱があり、それを人々はたいへん珍しいものだとして、われわれに見せた。

小倉藩の家臣の案内で小倉の町に向かった。
宿舎はたいへん心地よい場所にあり、設備もよかった。
小倉は以前には人口も多く栄えていたが、豊前の国が多くの大名に分割されて以来、今日では貧しく格下げの状態である。
この小国の収入は15万石である。




(小倉城 2013.2.13)





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