しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」津和地島~御手洗~来島~岩城島~弓削島~鞆~白石島

2021年09月15日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
第8章 小倉から大坂までの旅
1691年(元禄4)2月




2月20日

早朝、静かな天気に恵まれ岸を離れた。
すぐに山の頂上まで耕かされたおよそ40戸からなる沖の家室村に着いた。
しかし昼食の頃には左手にある津和地島に行った。


(津和地島 2015.9.25  愛媛県温泉郡)


(津和地島 2015.9.25  愛媛県温泉郡)



(津和地島 2015.9.25  愛媛県温泉郡)



その島の東南に向かって開けた円形の海岸に沿って約200戸の家の立ち並ぶ入江は、船頭たちにとって安全な港として役立っている。
その背後にある山は、頂上まで階段状に耕かされた畑になっている。



われわれはここから、穏やかな冷風に吹かれて、二つの山の間を安芸国の沿岸にある蒲刈の村まで進み、


(下蒲刈島・三之瀬 2009.2.12  広島県呉市)




そこからさらに数里先の、有名な御手洗の港に着き、
たくさんの他の船と共に暗夜な海に錨を下ろした。



(王長港 広島県大崎下島 2007.7.28)


(御手洗 広島県大崎下島 2007.7.28)


(御手洗 広島県大崎下島 2007.7.28)


今日の航海は全部で18海里になった。

われわれは昨日と同じように、航海中さくさんの帆船を見たし、
荒れ果てて作物のない多くの不毛の島や禿山を見た。
右手には4里を隔てて伊予国があり、右手には安芸国が見えたが、
どちらの国にも雪をいただいた高い山脈が連なっていた。






2月21日

日の出一時間前に、穏やかな天候に恵まれてわれわれは御手洗を離れた。
2里進と、四国の一番はずれの一角に広島藩主(毛利の間違いか)の粗末な館のある来島がわれわれの前に現われた。
その辺にある9の島と共に彼の支配下にあった。


(来島海峡)


(来島城)



さらに2.3里行くと幾つかの高い櫓のある美しく立派な城と今治の町が見えてきた。


(今治城 2018.10.18)


城主松平の城下町で、彼は紀州侯の子息で、ここから5里行くと狭い海峡がある。左手の海岸に鼻繰村というのがあり、
われわれは、そこで新しい水を補給するために、約1時間停泊していたが、
その間にもたくさんの帆かけ船が通り過ぎていった。






(鼻栗の瀬戸 2011.1.14  愛媛県今治市)

鼻繰村は戸数60で、鼻の穴のことを意味し、その地形からこの名がある。
塚のように藁を積み上げた9の小屋があって、その中で海水から塩を作っていた。
そこから遠くない所の海岸には漁村があった。





2~3里進むと、左手にある約80戸の岩城村に着いた。
この辺りでは至る所、陸地に海が入り込んでいるので、この村が本土の海岸にあるのかどうか、私は明言できない。


(岩城島積善山 2007.4.   愛媛県越智郡)





さらに通過した西側には、たくさんの港や村落があった。
塩谷というのはその中の一つの村で、われわれの航路の右手の島にあり、
約100戸の家があるのが見えた。そこではたくさんの塩がつくられ、こうした名がついたわけである。

そこから、あまり遠くない所に弓削村があり、そこの住民は豊かな農村で、その中に一軒の立派な邸宅があった。


(弓削島 2010.10.4.29 愛媛県越智郡) 


(弓削島 2010.10.4.29 愛媛県越智郡) 






さらに船旅を続けていくうち、風向きが変わって、われわれには大変好都合になった。
右舷には、広い備後灘がひらけ、四国島の伊予と讃岐の間には、海が非常に深く入り込んでいたので、四国の海岸は見極めることができなかった。
間もなく航路からそれほど遠くない左手の、備後の国のゆるやかにのぼる山地を背にした海浜に、有名な鞆の港と町があった。
それゆえ、同じ名前の他の場所と区別するために備後の鞆と呼ばれている。


(鞆の浦 2007.2.12 広島県福山市)


(鞆の浦 2010.3.30 広島県福山市)



湾曲した入江に沿った長い通りには、みすぼらしくはない数百の家があり、
遊郭と二つの美しい寺院がある。


(鞆の浦 2012.9.4 広島県福山市)


ここでは床に敷く大変上質の畳表を産出し、他国に送り出している。


(鞆の浦・観光鯛網 2014.5.9 広島県福山市)



この町の後ろの斜面には、清楚な尼寺があり、そこから1/4ドイツマイル行くと、
仏を安置した有名な阿伏兎観音堂があり、


(阿伏兎観音 2012.5.24 広島県福山市)



人々はいろいろな病気を治し、しかも特に船乗りに順風を恵むすぐれた力を、この仏のご利益だと思っている。
それゆえ船乗りや旅客は何枚かの小銭を小さな板の上にしっかりとくくりつけて海中に投げ、
彼らがそう呼んでいる阿伏兎観音様に、よい風が吹くようにお供え物を贈るのである。
こうしたお供え物は、その都度岸に流れ着いて、彼らの願いがかなうのである。
とはいっても、堂主はそれをもっと確実にするために、風の静かな時に、航行している船のそばに自分の小舟で出かけて行って、観音様のために銭の寄進を頼むのが普通である。








われわれは順風に送られて7里進み、航路右手の海岸にある白石という小さな村に着き、
これから先の航海でも二度と期待しえない都合の良い投錨地を選び、日没の1時間前に錨を下ろした。



(白石島 2008.6.14  岡山県笠岡市)


(白石島 20016.8.11  岡山県笠岡市)



この村にはおよそ50戸の家がある。
この小さな島には北に向って開いている細長い港があり、その近くに開墾された心地よい谷が、この港特有の地形をなしている。
村に続いている山の高みの洞窟には弘法大師が祀ってある。


(白石島 弘法山開龍寺)


われわれの船の他に、ここにはなお1艘の船が停泊し、それらはわれわれにならい、横揺れを防ぐためにマストを倒した。
われわれは今日、南の順風を受けて、東から北、北から東へと向きを変えて18里航海したのである。





(白石島  2012.9.4  岡山県笠岡市)


(白石島海水浴場  2018.7.22  岡山県笠岡市)





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1 コメント

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Unknown (killy)
2021-09-07 12:34:56
岡山県立博物館講座では
江戸期の山陽道と瀬戸内海の通行量は、瀬戸内海航路3:山陽道1の割合だったそうです。
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