しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (悲劇の序幕)

2023年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争は、
現在のウクライナ戦争に似ている。

相手を弱国とみて、一方的に進攻する。
世界中で、日本国民だけが、”正義の皇軍”であると信じていた。

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「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行

盧溝橋事件

1937年7月7日、盧溝橋で、
日本の天津駐屯軍の小部隊が演習中に中国軍の小部隊と衝突した。
これを「盧溝橋事件」という。
最初の一発が、日中両軍のどちらかによるものかは、いまだ明らかでない。
7月11日現地で停戦協定が結ばれた。
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ところが、
同じ7月11日、東京では五師団の兵力を中国に派遣することが閣議で決定された。
参謀本部作戦課長は
「千載一遇の好機だからこの際やったほうがいい」、
参謀本部支邦課長は
「上陸せんでよいから、塘沽附近まで船を回して行けば、それで北京とか天津はもうまいるであろう」
と述べたという。
拡大派も中国との全面戦争を希望したわけではなく、
出兵という武力の威圧によって中国は屈伏するものと楽観視したわけである。

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最後の関頭

中国では、反日・抗日の声が高まった。
1937年7月17日、
蒋介石は有名な「最後の関頭演説」を行っている。
「たとい弱国たりとはいえ、
もし不幸にして最後の関頭にたちいたるならば、
われわれがなすべきことはただ一つ。
即ち、
わが国民の最期の一滴までも傾倒して、
国家の存立のため抵抗し、抗争すべきである」。

ここで日本は、
西安事件に際し国民党と共産党の妥協を想起すべきであった。
残念ながら日本には、
国民党と共産党との抗日統一戦線を予測する能力に欠けていた。
また、
中国を相手にする戦争に深入れすれば、
米英両国を敵に回す惧れが大きいのに、気がつかなかった。
こうして、日本は
盧溝橋事件という些細な出先の揉め事をきっかけとして、
中国との全面戦争に深入りすることになった。

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盧溝橋

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「教養人の日本史」 藤井松一 現代教養文庫  昭和42年発行

悲劇の序幕

昭和12年7月7日夜、
北平(北京)郊外の豊台に駐屯していた日本陸軍の一個中隊が夜間演習に出動し、
芦溝橋の西北に向かった。
この当時、義和団事件議定書の条項により北平郊外には
日英仏伊四か国の軍隊が駐屯しており、
これらの軍隊は、戦闘以外の演習を自由に行うことができた。
しかし前年以来の緊張した状況の中で、
しかも中国軍が駐屯する芦溝橋のまぢかで演習を行うことは、
事件を引き起こす可能性を十分にはらむものであった。

その夜10時半、実弾射撃が加えられ、点呼すると兵一名が行方不明になっていた。
その日現地の牟田口聯隊は芦溝橋、竜王廟を占領し、
9日から11日までの交渉で停戦協定が成立した。

しかるに内地では9日、杉山陸相は三個師団の派兵を提案、
11日夕刻五相会議で認め、派兵声明を行った。
現地で停戦交渉が成立したにもかかわらず、
内閣が派兵とその理由を声明したことは、
日本政府が戦争をたくらんでいるという印象を内外、
とくに中国につよく印象づけた。

7月28日早朝から日本軍はいっせいに総攻撃を開始し、
宋哲元軍を北平周辺から一掃した。
8月14日、日本政府は
「支那軍の暴戻を膺懲し、 (暴支膺懲・ぼうしようちょう)
以て南京政府の反省を促す為、
今や断固たる措置をとるにやむなきに至った」
との強硬声明を発した。

以後、日本の大陸侵略戦争はまる8年間の長きにわたってつづけられていくのである。

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盧溝橋

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画像は、

「NHK歴史への招待㉑」より借用

 

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