しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

寺小屋の授業

2023年12月23日 | 学制150年

 

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世直し大江戸学 石川英輔 NHKラジオ 2009年10月~12月号


民間まかせの初等教育
さまざまな教科書

現代人の多くは、それほど就学率が高かったのならさだめし教育制度は完備していたのだろうと思うだろうが、
江戸時代の日本には、義務教育の制度どころか庶民のための学校制度や教員免許など、教育に関する法規そのものがなかった。
幕府には、民間教育の部門がなく、江戸の市民行政を担当する町奉行所でさえ、手習いを専門に担当する役人などいなかったから、
誰でもその気になれば寺子屋・手習い塾を開業し、「お師匠様」と最高の敬称で呼ばれる教師になれた。

高等教育にはある程度の予算をつけて学問所を建てた幕府だったが、一般庶民の手習いにはまったく無関心だったといっていいだろう。

教室は、教師の自宅を使うのが普通で、教師の生活空間を昼間だけそのまま教室に転用したのである。
そんないい加減なことで初等教育ができるのかと首をかしげる向きもあるだろうが、それで高い識字率を維持していた以上、子孫のわれわれが余計な心配をする必要はない。弊害がなかった理由は簡単で、自転車もなかった時代の人々は狭い地域社会に住んでいたので、都市でもたちの悪い人間が入り込めばすぐわかったからだ。

寺子屋の教科書のことを「往来物」という。
往来とはもともと「手紙のやり取り」の意味で、
平安時代には手紙の模範文例集の意味になっていた。
鎌倉時代から室町時代になると、手紙文のための単語や短い文章などを集めた教科書のように使われるようになり、江戸時代には、寺子屋 で使う教科書の意味になった。
そして、数えきれないほどたくさんの往来物が刊行された。 
寺子屋の教科書の中でもっとも有名なのが『庭訓往来』だろう。
これは代表的な往来物で、文語の手紙文の模範例になる二五通の手紙を十二ヵ月に配列してある。

現在の学校と寺子屋・手習いの最大の違いは、今の学校が「一斉授業」であるのに対して寺子屋式が「個別授業」だという点だった。
今の教室では、机を教師の方へむけて同じ教科書の同じ所を勉強するのが基本だが、
寺子屋式では一人一人の進み具合に合わせて教えるため、教師は原則として生徒と一対一で向き合う。
だから、生徒は机を好きな方向へ向けておくのが普通だった。
寺子屋には制服のたぐいはない。
服装は親の好みや経済力にしたがって決めることであり、師匠が口出しするべきことではなかったからだ。
寺子屋や手習いは、男子だけ、あるいは女子だけの塾が普通だったようだが、男女共学がなかったわけではない。
夫婦で師匠をしていて、夫が男子、妻が女子を教える場合もあった。
お上の決めた決まりはないので、それぞれの地域に合ったやり方で教えていたのである。
寺子屋教育の基本は読み書きだが、勉強が進むと漢文の初歩を習う場合もあった。

 

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「鴨方町史」

江戸幕府の文教政策と町人階級の台頭・農村の商業化に伴い、江戸中期以降庶民の間に読み・書きを主とする学問への要求が高まり、特に幕末期にかけて寺子屋は増加の一途をたどった。
町内にも多くの寺子屋の出現をみた。
寺子屋の実態を鴨方町にあった梅林舎を例にとってみると、次のようであった。

師匠坂本氏(斉・復二父子)は神職で、社務の余暇に教授した。
学科は習字と読書であった。
弘化・嘉永ごろ(一八四四~五四)より習学科を始め、読書科を漸次教授するにいたった。
習字科は正・草二体仮名より漸次教え、習字本はいろは・数字・通用金銭・名数・包物送遺・人名・村名・郡名・国名・商売往来・諸職往来・消息往来・風光往来・
書状文・庭訓往来であった。
読書科は三字経・孝経より漸次教えた。
読書は三字経・孝経・小学・四書・五経・諸詩集で、
女子は、女用文章・女小学女大学・そのほか各自随意であった。

授業時間は、朝の七つ (午前八時)より晩の七つ (午後四時)までの八時間で、その間に昼食時間を休んだ。
修業年限は数年が一般的であったが、梅林舎の例では、九年六年五年となっていた。
束修(入門料)・謝儀(授業料)などは入用であった。
授業料は、師匠より一定の額を定めないですべて父兄の意志に任せた。
五節句・中元・歳暮などに 贈り物がなされた。

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

江戸時代の筆記用具はどんなもの?

A. 筆記用具は筆と和紙

江戸時代に一般に使われていた筆記用具は筆です。 
寺子屋での学習の中心は習字で、使われていたのは墨と毛筆と紙(和紙)でした。
字を双紙(半紙を何枚も束ねて冊子にしたもの)に書きました。 
紙は貴重品でしたから、同じ紙に何度も重ね書きしたり、墨のかわりに水を使い、乾かしてはまた使ったりしました。

江戸時代の携帯用の筆記用具は 「矢立」 でした。
矢立は硯と筆を1つの容器におさめたもので、
硯の水(墨)がこぼれないよう、もぐさという草などにしみこませてありました。


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寺子屋

2023年12月23日 | 学制150年

 

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

寺子屋

江戸時代は武家が社会を支配した時代であったが、商工業の発達、貨幣経済の発展とともに町人の力が抬頭し、その生活に文字の読み書きや計算が必要になると、やがて庶民の間に自然発生的に教育機関が設けられていった。
これが寺子屋である。
石川謙がその著『寺子屋』の冒頭で「寺子屋とは近世になって生れた初等教育のための私立学校である」と言っている。 

寺子屋は江戸時代の中期から次第に発達し、幕末・明治初年にかけて全国的に激増した。
そこで授けられた教育内容は庶民の日常生活に必要な読み・書き・そろばんの初歩であった。 
寺子屋における日々の学習は「手習い」を中心として、それに読み物が加えられた。
幕末以後にはそろばんを合わせ授ける寺子屋も多くなった。
このように寺子屋は読書・算の三教科を授ける初等学校であり、 
明治初期の小学校に近づいているといえる。

また寺子屋は幕府や藩によって設立されたものでなく、それらの統制・干渉・援助等を受けることもなく、庶民が日々の生活や生産を営んでいく必要から、
庶民自らが民間の教育施設として、自由に設立・経営した学校であった。
なお幕末から維新にかけて寺子屋と同種の私塾が多数存在し、また寺子屋が私塾と呼ばれることも多かった。
寺子屋・私塾は、庶民生活の要求を反映して発達し、幕末には江戸や大阪などの町々はもちろん、全国の農山漁村にまで広く普及した。
それらの一部は、維新後府藩県の教育政策の下に小学校や郷学校等の設立に際して、それに切り換えられたり吸収されたりして新しい学校の母体となったものもあった。
しかし、多くは維新後も存続し、また維新後新しく開設されたものもあり、庶民の初等教育機関として、「学制」発布以前に重要な役割を果たし、
「学制」に基づく小学校の重要な母体となったのである。

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世直し大江戸学 石川英輔 NHKラジオ 2009年10月~12月号

高い就学率
寺子屋は人間サイズの教育
江戸時代後期の日本では、庶民の就学率、識字率ともに世界一の水準に達していた。
すべて欧米が進んでいたはずだと信じている人が多いが、イギリスの最盛期、十九世紀中頃の ビクトリア時代でもロンドンの下層階級の識字率は10パーセント程度だった。
また、大革命のときのフランスでは、1793年に初等教育を義務化し、翌年にはさらに無料化したが、10歳から16歳までの子供の就学率は1.4パーセントだった。
かけ声だけだったといっていい。
1800年のフランスで、婚姻届に署名できた人の比率は37パーセントだったそうだが、これはあくまでも自分の名前を書けたというだけで、
文章を読み書きできる能力があったかどうかはわからない。
また、ロシアでは二十世紀に入った1910年代でさえ、モスクワでの識字率が 20パーセント程度だったというから驚く。

これに対して文化年間(1804~18)の江戸府内では、当時「手習い」と呼んでいた初等教育のための私塾が大小合わせて1500ぐらいあり、子供が読み書きを習うのは当たり前になっていた。
一般に「寺子屋」と呼んでいた私塾の数は、文部省の『全国教育史資料』によると、幕末・明治初年には全国で15.882ヵ所あったそうだ。

自由放任の封建社会では、面倒な手続きは必要ないし、大した経費もかけずに教師のポケットマネーで学校を始められたから、三点セットを揃えた学校がいつの間にか日本中に雑草のように根づいていったのである。
まず教師だが、教師になるための専門教育も免許もないから、人並みか人並み以上の文字が書けて、子供に教える意欲があれば身分や職業に関係なく誰でもなれた。
それでも、水準の低い教師には生徒が寄りつかないから、大した害はなかったようだ。
教科書も、江戸時代後期にはさまざまな寺子屋用教科書が刊行されていたから、それを買えば済む。
後で説明するように、生徒の人数分だけ揃えるのではないから、大した冊数はいらない。 
何度もいうように、教科書の一字一句にまで目を光らせる民主政府と違って、封建的な徳川幕府は初等教育を民間まかせで放任していたから、何を教科書にしてもかまわなかった。


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「江戸の子育て読本」  小泉吉永  小学館 2007年発行

全国に五万校以上あった寺子屋

江戸時代、庶民は一般に寺子屋(手習塾・手習所)に入門して読み・書き・算盤を学んだ。 
江戸時代の寺子屋の数は手習師匠を称えた石碑や墓(筆子塚)などの研究で、文献に記されていない寺子屋が多数存在したことが明らかとなり、これらを踏まえると、寺子屋は全国に五万校以上あったという推計もある。
現在の小学校が およそ二万三〇〇〇校だから、人口比率から考えても、全国各地にきわめて多くの寺子屋が存在したことがわかる。

江戸時代後期になると、寺子屋での教育のニーズが急速に高まった。
学校制度のない当時は、多少読み書きができれば、誰でも自由に寺子屋ができたため、
なかには師匠らしからぬ手習師匠も現われた。

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「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

裁縫塾やけいこごとと同じように、需要に応じて発達してきた教育機関に寺子屋がある。
『日本教育史資料』をもとにした石川松太郎の試算によると、13.816に及ぶ寺子屋のうち、女児の就学していた寺子屋は、62.5%に達し、男子100対する女子の就学率は、ほぼ25%に及んでいる。
東京や京都・大阪などの大都市では、ほとんどの寺子屋が男女共学で、しかも、女子の就学率が男子に匹敵している。
こうした状況をふまえると、男子に読み書きを教えていた寺子屋に、女子も進学するようになり、とくに大都市では、女子用教材も伝達する女師匠の経営する女子向けの寺子屋が発達してきたと考えられよう。

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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
寺子屋
寺子屋は、庶民の子弟を対象に僧武士などが先生となり、文字の読み・書き・そろばんを教えた教育機関である。
江戸時代に普及したが、古いものは室町時代後期まで遡るといわれ、 
寺院での師弟教育から始まったことから「寺子屋」の名称がついたと考えられている。
寺子屋で子どもたちは「お手本」をもとに、練習帳の「草紙」が真っ黒になるまで何度も書き、文字を覚えていった。
子どもたちが使用した教科書を「往来物」と呼び、手習いの手本と して使用されていた。
往来とは、もともと往復一対の手紙をいくつも収録して編集した教科書のことで、
十一世紀後半から十九 世紀後半までに七千種もつくられた。 
その種類は多種多様で社会・歴史・雑学・産業や専門分野女子用のものもあった。

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江戸時代の子ども

2023年12月23日 | 学制150年

出産時・間引き・疫病等、
赤ちゃんが二歳まで生きるのも、なかなかたいへんだった。


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「江戸の子育て読本」  小泉吉永  小学館 2007年発行


菜っ葉のように子を堕ろす

ルイス・フロイスは堕胎が日常化しているしていることに仰天した。
「日本の女性は、育てられないと思うと、嬰児の首に足をのせ、すべて殺してしまう」と述べた。

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 「子宝」を人為的に抹消する「間引き」には、子どもの生命を尊重する観念はまったくない。
たしかに経済的な理由による間引きも多かったが、しばしば親の身勝手(体面保持や性的欲求など)のために子殺しが行なわれ、 
なおかつ、残忍な手口で行なわれることもあり、「子宝」思想とは相容れないものであった。
間引きを「お返しする」「お戻しする」と表現したように、たとえ「授かりもの」でも一定期間なら、育児を放棄し授かった生命を神に返しても何ら問題はないと考えた。
それは「孝」によっても正当化された。
いずれにしても、一度「お返し」しても、子どもの生命は再生可能と考えた。
言うまでもなく子どもの人格や生存権など皆無の世界である。
今いる家族が生きていくために、または子どもの誕生が不都合な場合に、しばしば罪の意識もなく間引きが行なわれた。 
そして、男児なら「山に遊びにやった」、女児なら「野に草摘みにやった」という隠語で周囲の了解が得られるほどに常態化していた。
仮に間引きした子を憐れみ悲しむ親がいても、周囲は「また産めばよい」と慰めたであろう。 
また、「預かりもの」という観念には「本来自分のものではない」という意識が含まれており、その考え方が親の養育義務の放棄につながった可能性もある。 

芭蕉は、旅の途中に出会った捨て子を見て、これはまったく運命であり、その不運を泣けとつぶやいて立ち去ったというが、
捨て子や間引きにはこのような「運命」「天命」への責任転嫁がなされたのであろう。
実際に、乳幼児の死亡率はきわめて高く、普通に育ててもつぎつぎに死んでいった。
成人まで丈夫に育つという保証はまったくなく、むしろ、育たない確率のほうが高かった。
このように多産多死の状況で、間引きや堕胎の罪悪感は希薄になった。

 

将軍の子でも七割が二歳未満で死亡

「子だくさん」で知られる11代将軍徳川家斉は、正室と側女40人との間に55人の子をもうけた。
だが、40歳以上まで生きたのはわずかに7人(約13%)にすぎなかった。
ちなみに15歳を超えたのは21人と半分に満たず、じつに69%が二歳未満で死亡しており、
御典医による最高の医療でも、乳幼児の7割を救うことができなかったという。

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出産は「あの世とこの世の境」といわれ、
母子ともに命がけだった。
だから、死産でも妊婦が無事なら「安産」といった。
周囲の心配も大きく、神仏への祈願も一入だった。

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若者組


「若者組」は、おおむね一五歳以上の、 成年式を終えた青年が加入する組織で、加入の際には保証人となった先輩・知人に付き添われて「若者宿」などの集会所へ行き、リーダーや先輩から掟を聞かされたうえで杯を交わし、正式な加入が認められた。
新米のうちは雑用や使い走りをさせられ、さらに先輩から徹底したしつけや教育を受けることで、子供心をぬぐい去っ 自立した大人へと成長していった。
若者組は、地域における祭礼・芸能、消防・警備・災害救援、性教育・婚礼関係 などに深くかかわり、その責任も裁量も大きなものだった。
いったん若者組に加入すれば内部事情はいっさい口外しない決まりで、周囲の大人たちも口出しすることはなかった。
このように、江戸時代の子どもたちは、大人の仲間入りをするまでのあいだ、さまざまな人々との重層的な関係や集団のなかで育てられたのであり、
そこには、大勢の人間が深くかかわって一人の子どもを育て上げていく、網の目のような教育システムがあったのである。


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女子教育

貝原益軒は『和俗童子訓』で、女子教育の内容について、つぎの指摘をしている。

▼7歳から仮名と漢字を習わせる。
古歌を多く読ませて風雅の道を教える。
▼名数などの単語を多く読み覚えさせた後に、『孝経』首章、『論語』学而篇、曹大家の『女誡』などを読ませる。
▼10歳になったら外に出さず、家の中で「織り縫い」「積み紡ぎ」の技術を教える。
▼女子に読ませる草紙も吟味する。
『伊勢物語』『源氏物語』は言葉は風雅だが、みだらな風俗が書かれているため、早く見せてはいけない。
▼女子にも物を正しく書くことや算数を習わせよ。 
物書きと計算ができなけれ ば、家内の記録や家計のやりくりができない。

このように益軒は、
読み・書き・算盤の初歩教育を男女同様に行なうとした点は画期的だったが、
女子教育を基本的に家庭内に限るなどの限界もあった。

 

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