しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

教育勅語

2023年12月27日 | 学制150年

「教育勅語」は戦前の小学校・国民学校での記憶が強いのは共通だが、
やはり世代によって相当差がある。

父や母の世代は紀元節や天長節や節句の学校行事に限定されている。
父の場合は、校長先生が読み上げるのを聞くだけ(耐えるだけ)。
母の場合は、覚えるように指導されていた。

戦時中になると、覚えることに加え
児童は、「教育勅語」に向って毎朝最敬礼して教室に入っていった。
先生は、児童の命よりも先に守るべき大切な”紙”であった。

 

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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スペシ」(教育勅語)

明治23年(1890)10月30日、明治天皇の言葉(勅語)として発布されたもので、正確には「教育ニ関スル勅語」という。
日本の教育理念とされ、国民の精神のあり様を規定してきた。
全文315文字からなるその内容は、
教育の淵源は歴代天皇の徳化と臣民の忠誠によって形づくられた国体にあることを説いて、
遵守すべき十四の徳目をあげ、さらに国体の危機にあっては何はおいてもそれを守るために全力を挙げることを求めている。
引用したのはその部分である。
維新後、急進的な欧化政策をとる政府、特に文部省に対して保守派には根強い反発があり、
前代の教育原理とされていた儒教道徳の復興、それを学校教 育の根幹にすえるべきとの動向が根強く続いていたが、
帝国憲法制定を機にそれが表面化したのが教育勅語。

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教育勅語
学校教育のみならず国民のものの考え方、行動様式を強く規制する働きをするようになり、昭和期の 軍国主義の成立基盤ともなった。 
教育勅語は制定と同時に各学校にその謄本が下賜され、祝祭日には奉読されるよ うになり、
昭和に入って小学校上級生になると歴代天皇名とともに暗唱することが強制されるようにな る。
昭和一桁生まれの人々には記憶があるはずであ る。
また、ほぼ同時に天皇、皇后の公式肖像写真、これは普通「ご真影」と呼ばれたが、
それが学校に 下賜され、儀式の節には勅語の奉読とご真影への敬 礼、君が代斉唱などがセットにされる。
また勅語などを安置する場所として奉安殿が校内に作られ、二宮尊徳像とともに戦前の学校の風景を形づくるよ うになる。
また、学校に道徳教育を担当とする科目として置 かれた修身は、明治13年(1880)に諸教科の筆頭となり、教育勅語制定後にはそこに盛られた徳目を敷衍する教材が中心となっていく。
明治から昭和戦前にかけて
形成されるこうした学校文化 の基本は、教育勅語制定に始まるのである。

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「近代日本の出発」  板野潤治 新人物往来社 昭和44年発行


教育勅語の発布

教育勅語
 明治23年に発布された「教育勅語」は、 昭和20年8月の敗戦まで55年間にわたって、学校をつうじての天 皇制注入の最大のよりどころとして機能した。
小学二年生で敗戦をむかえた筆者には、
紫の袱紗から校長が恭々しくとりだしてなにかを読んでいた記憶しかないが、
上級生で敗戦をむかえた人たちは、おそらく40年以上たった今日でも、勅語文を空でいえるであろう。
一読してわかるように、この勅語の冒頭と末尾では、「万世一系」の天皇像とあらゆる道徳的な善の具現者としての天皇像とが強調されている。

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

明治20年代には、教育勅語が発布され、知性の開発よりも人物とくに臣民の養成が教育目的となった。
明治24年に定められた「小学校祝日大祭日儀式規程」は、行事に大きな転換をもたらした。
これ以後国のための教育が、儀式によって児童のからだにたたみこまれていった。

それは明治24年、天皇・皇后両陛下の御真影並びに勅語謄本を校舎内の一定位置に奉置することが義務づけられてきたが、
その後そのための奉安室とか奉安所とかがますます明確な形をとって設けられるようになった。
これは明治後期の天皇絶対主義教育の補強策を反映したものであった。


「富国強兵」をめざして、遠足、運動会、 修学旅行が、訓育的性格をもって登場した。
明治後期には試験にかわって学芸会が、学習したことを人前で発表す ることを目標として成立した。
明治期末には、小学校で学校行事を含めた教科外活動の教育的価値が認められてきた。
このとき学校行事は、個々の行事としてではなく、まとまったものとして考えられるようになった。
文部省や地方当局は、外国に対抗できる国家・国民をつくることに懸命であった。
明治期の学校は、管理上学事奨励や臣民養成の機関とみなされ、学校は国の近代教育推進上国家の意識を体得させるための重要な機関と考えられた。
為政者たちは、試験、儀式、運動会、展覧会、学芸会に父兄の参集を強く呼びかけた。
父兄を学校に集め、 父兄の教化をもはかった。

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明治20~30年代の小学校 (学校施設の標準化)  

2023年12月27日 | 学制150年

働かなければならないために、小学校にも入学せず、または入学しても、中途で小学校をやめて、働きにでる子どももたくさんいた。
明治28年の就学率は、61.24%である が、
不就学者の約58%が「貧窮によるもの」であった。
この子どもたちは、他家の子守奉公にだされたり、丁稚奉公や徒弟奉公に出されたりした。
また明治20年代以降、産業革命の進行する中で、製糸・紡績・織物などの繊維工場や、
マッチ工場、ガラス工場などに幼年労働者として就業したものもいる。

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 就学率とクラス分け

1900年代になって就学率があがり、ほとんどの子どもが学校に通うようになると、多くの学校で2学級ないし3学級のクラスができたのです。
そのころから、どうクラスわけをするかが、大きな問題になりました。
第1の間題は、尋常小学校に入ったばかりの児童のクラスわけでした。 
早生まれの3月生まれと、4月生まれでは体格もずいぶん違うのです。 
そこで4月生まれから10月生まれで1クラス10月生まれから翌年の3月生まれまでを1クラスにするようになりました。 
そして尋常小学校3学年からは男子組と女子一組にわけることとされたのです。
ところが、人数が増えて3クラスになると半端な1クラスができました。 

戦後は新憲法や教育基本法のもとで男女が同じ教室で学ぶのが普通になりました。 (渡辺)

 

A. 学校給食のうつりかわり

学校給食は家が貧しくて昼の弁当をもってこられない子どもを助けるために始まりました。
給食のきっかけは弁当がひんぱん になくなることでした (石島庸男著 『山形県近代教育小史』)。 
明治年間には 広島、秋田、岩手、静岡、 岡山県の一部でも行われたようです。

 

A. 明治時代は着物

明治時代の子どもたちは、家でも学校でも遊びでも服装は着物でした。
男女とも筒袖(たもとがなく、袖が筒のようになっている着物) で、
男子はカスリ、女子は草花模様の色染めの着物が好まれました。 
寒くなると着物の上に半天や羽織を重ね着しました。 
小学校の児童の服装については、家庭の経済状態などから、文部省も一律のきまりはつくりませんでしたが、
筒袖が多かったのは、 1894 (明治27)年、体育や衛生の点から、
 「生徒は活発に活動しやすくするために、学校内においては洋服、和服を問わず、なるべく筒袖とするように」
という指示を出したことが影響しているかもしれません。

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

教員

 

当時の教員の等級
明治14年(1881)に政府ははじめて公立学校の職員の名称および准官等を定めたが、これによれば、小学校の教員は一等訓導(一一等)から七等訓導までとしている。
これに基づいて府県でも教員の等級および月給を定めている。
例えば神奈川県では、同年九月に小学校教員の等級および月俸額を定め、高等科教員は一等訓導から四等訓導までとし、その月俸は30円以下10円以上、中等科教員は五等、六等で、月俸は15円以下6円以上、初等科 教員は七等訓導で8円以下5円以上としている。

明治期の小学校
村に雇われていた教員
明治初期の教員は契約によって町村に雇用され、町村役人の管理の下におかれていた。
その雇用契約書は「条約書」とも呼ばれ、そこには雇用期間、月給、住宅、職務内容などについて定めている。
明治初期の教員は契約によって村に雇われ、村から給料をもらって村の学校に勤務する村の教員であった。
明治後期以後は師範学校および小学校教員は厳しい国家統制の下におかれることとなり、「村の教員」から「国の教員」へと教員の性格が変化していったと見ることができる。

そして明治18年に再改正された「教育令」において、一般的に教員資格の免許状主義の原則が確定された。
教員資格については、免許 資格主義の構造が明らかになるとともに、全国的規模での実践が現実性を帯びた課題となってきた。

 

学校施設の標準化
明治14年頃から学校施設の標準化を志向する行政指導がはじまった。
文部省は「教育品陳列場」を特設し、そこに模範教場を出品し、小学校建築や校具の範を示したとされている。
小学校の建築に関し、敷地 校舎、教場、付帯設備、校具にわたる明確な量的基準を示したのであっ た。
教室面積の算定基準一坪当たり児童四人という数値は、その後第二次世界大戦後に至るまでのわが国小学校の教室規模を規制する基準となった。
明治末期になると、学校内部管理の成熟にともない学校の施設・設備もしだいに整備されてくるが、
そのなかで 第二次世界大戦後にはみられない特筆事項がある。

それは明治24年、天皇・皇后両陛下の御真影並びに勅語謄本を校舎内の一定位置に奉置することが義務づけられてきたが、
その後そのための奉安室とか奉安所とかがますます明確な形をとって設けられるようになった。
これは明治後期の天皇絶対主義教育の補強策を反映したものであった。


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