「教育勅語」は戦前の小学校・国民学校での記憶が強いのは共通だが、
やはり世代によって相当差がある。
父や母の世代は紀元節や天長節や節句の学校行事に限定されている。
父の場合は、校長先生が読み上げるのを聞くだけ(耐えるだけ)。
母の場合は、覚えるように指導されていた。
戦時中になると、覚えることに加え
児童は、「教育勅語」に向って毎朝最敬礼して教室に入っていった。
先生は、児童の命よりも先に守るべき大切な”紙”であった。
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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行
「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スペシ」(教育勅語)
明治23年(1890)10月30日、明治天皇の言葉(勅語)として発布されたもので、正確には「教育ニ関スル勅語」という。
日本の教育理念とされ、国民の精神のあり様を規定してきた。
全文315文字からなるその内容は、
教育の淵源は歴代天皇の徳化と臣民の忠誠によって形づくられた国体にあることを説いて、
遵守すべき十四の徳目をあげ、さらに国体の危機にあっては何はおいてもそれを守るために全力を挙げることを求めている。
引用したのはその部分である。
維新後、急進的な欧化政策をとる政府、特に文部省に対して保守派には根強い反発があり、
前代の教育原理とされていた儒教道徳の復興、それを学校教 育の根幹にすえるべきとの動向が根強く続いていたが、
帝国憲法制定を機にそれが表面化したのが教育勅語。
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教育勅語
学校教育のみならず国民のものの考え方、行動様式を強く規制する働きをするようになり、昭和期の 軍国主義の成立基盤ともなった。
教育勅語は制定と同時に各学校にその謄本が下賜され、祝祭日には奉読されるよ うになり、
昭和に入って小学校上級生になると歴代天皇名とともに暗唱することが強制されるようにな る。
昭和一桁生まれの人々には記憶があるはずであ る。
また、ほぼ同時に天皇、皇后の公式肖像写真、これは普通「ご真影」と呼ばれたが、
それが学校に 下賜され、儀式の節には勅語の奉読とご真影への敬 礼、君が代斉唱などがセットにされる。
また勅語などを安置する場所として奉安殿が校内に作られ、二宮尊徳像とともに戦前の学校の風景を形づくるよ うになる。
また、学校に道徳教育を担当とする科目として置 かれた修身は、明治13年(1880)に諸教科の筆頭となり、教育勅語制定後にはそこに盛られた徳目を敷衍する教材が中心となっていく。
明治から昭和戦前にかけて
形成されるこうした学校文化 の基本は、教育勅語制定に始まるのである。
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「近代日本の出発」 板野潤治 新人物往来社 昭和44年発行
教育勅語の発布
教育勅語
明治23年に発布された「教育勅語」は、 昭和20年8月の敗戦まで55年間にわたって、学校をつうじての天 皇制注入の最大のよりどころとして機能した。
小学二年生で敗戦をむかえた筆者には、
紫の袱紗から校長が恭々しくとりだしてなにかを読んでいた記憶しかないが、
上級生で敗戦をむかえた人たちは、おそらく40年以上たった今日でも、勅語文を空でいえるであろう。
一読してわかるように、この勅語の冒頭と末尾では、「万世一系」の天皇像とあらゆる道徳的な善の具現者としての天皇像とが強調されている。
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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
明治20年代には、教育勅語が発布され、知性の開発よりも人物とくに臣民の養成が教育目的となった。
明治24年に定められた「小学校祝日大祭日儀式規程」は、行事に大きな転換をもたらした。
これ以後国のための教育が、儀式によって児童のからだにたたみこまれていった。
それは明治24年、天皇・皇后両陛下の御真影並びに勅語謄本を校舎内の一定位置に奉置することが義務づけられてきたが、
その後そのための奉安室とか奉安所とかがますます明確な形をとって設けられるようになった。
これは明治後期の天皇絶対主義教育の補強策を反映したものであった。
「富国強兵」をめざして、遠足、運動会、 修学旅行が、訓育的性格をもって登場した。
明治後期には試験にかわって学芸会が、学習したことを人前で発表す ることを目標として成立した。
明治期末には、小学校で学校行事を含めた教科外活動の教育的価値が認められてきた。
このとき学校行事は、個々の行事としてではなく、まとまったものとして考えられるようになった。
文部省や地方当局は、外国に対抗できる国家・国民をつくることに懸命であった。
明治期の学校は、管理上学事奨励や臣民養成の機関とみなされ、学校は国の近代教育推進上国家の意識を体得させるための重要な機関と考えられた。
為政者たちは、試験、儀式、運動会、展覧会、学芸会に父兄の参集を強く呼びかけた。
父兄を学校に集め、 父兄の教化をもはかった。
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