しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

祖母さんの学歴

2023年12月28日 | 学制150年

一代(かずよ)祖母さんは、管理人の祖母。父の母。
明治28年9月7日、岡山県小田郡城見村茂平に生まれた。
農家の4人姉妹の次女だったが、
長女が家を出たために養子をもらい家を継いだ。

長女が家を出た原因は、
どうしても”女学校に行きたい”、
そのために金持ちの養女となって家を出た。

 

・・・

一代祖母さん(明治28年~昭和52年)

・・・


祖母との会話で、学校や教育の話が出たことがない。
祖母の姉が命がけとも思える気持ちで、女学校に進学したのを比べると勉強に関心がなかったようだ。

祖母は実の娘(管理人のおば)からも、
「おばあさんは女学校に行かしてくれなんだ」と恨み節を何度も何度も聞いたことがある。


当時の農家の現状からみて、祖母の学歴は下記ではないかと思える。

 

明治34年 尋常1年

明治35年 尋常2年 (※明治35.4 笠岡町立笠岡女学校開校)

明治36年 尋常3年

明治37年 尋常4年

(ココまで☝)
(最大ココ☟まで)

明治38年 高等1年

明治39年 高等2年

・・・

明治6~7年、飛鳥小学校ができた。
明治11年、用之江・大冝・茂平の3校が一つになり用之江小学ができた。
明治19年、用之江小学校と改め濱川に校舎を建て5月11日開校した。
明治20年、尋常用之江小学校と改めた。
明治22年、城見村となる。
明治26年、城見尋常小学校と改めた。
大正3年、用之江空の下(今の所)に校舎を建てた。
大正5年、城見尋常高等小学校と改めた。
昭和5年、城見小学校講堂を新築する。(真田講堂)

「城見のあゆみ」 城見まちづくり協議会 2017年発行
  

 

・・・

祖母が入学したのは、

「城見尋常小学校」で、

場所は用之江濱川に校舎があったようだ。(それは何処だろう?)

 

父と管理人は、同じ校舎で、同じ6年間を通学している。

・・・

 

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祖父さんの学歴

2023年12月28日 | 学制150年

・一(しゅいち)祖父さんは、管理人の祖父。父の父。

珍名で、名前は”しゅいち”、文字は“・一”。
昭和32.33年頃、山陽新聞の珍名欄で記事になったことがある。
その時、人里から離れた山の桃畑にいて(自分も父も祖父も)、
そこへ山陽新聞の記者が取材に来た。
(山の中まで歩いてくること)あれにはびっくりした。

珍しい字なので、本人は村人の前でも「てんいち」「ちょぼいち」「しゅいち」と適宜に使い分けていた。
晩年は長寿であることと、酒好きであることとで”長老”と呼ばれ気分を良くし
訪れた人から、おちょこに酒を注いでもらうのを最高の楽しみにしていた。(と思った)

祖父は、明治26年12月2日生まれ。
広島県深安郡下竹田村に農家の四男として生まれた。
大正6年1月養子婚姻。
平成4年に亡くなったが、その年の笠岡市民広報の長寿番付では
笠岡市内6番目で、男性では2番に位置した。


祖父は管理人には、自分の子どもや青年の時の話をしなかったが
姉には「ABCを習った」のを自慢したことがあるようだ。
そのことから思考すると祖父の学歴は下記と思われる。

 

明治32年 尋常1年

明治33年 尋常2年

明治34年 尋常3年

明治35年 尋常4年

明治36年 高等1年

明治37年 高等2年

(おそらく、ココまでの6年間 ☝)

(下記は可能性がある☟ 最大8年間)

明治38年 高等3年

明治39年 高等4年

・・・


「学校の歴史 第2巻 小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

就学率

明治32年 59.6%

明治33年 67.8%

明治34年 74.2%

明治35年 78.4%

 

・・・

「ビジュアル版 学校の歴史」 汐文社 2012年発行

A. ふろしきで通学
明治のころ、大部分の子どもたちは、ふろしきに本を包み、背中に背負って学校に行きました。 
明治の終わりころから男子用のズック製のかばんが出てきましたが、女子はふろしき包みのようでした。 
ズックは麻や木綿の繊維を太くよった糸で織った布地で丈夫でした。 

・・・

 

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明治33年義務教育4年

2023年12月28日 | 学制150年

昭和30年代の城見に、
文盲の人たちは何人もいた。

その当時の城見小学校では「運動会」と「学芸会」のプログラムを全家庭に配布していた。
校長先生は全児童の前で、
「読めない方もおられるので、読むのを頼まれたら、必ず読んであげること」
と訓辞していた。

小学生が在学していない家に配って歩いていたが、
上級生からの言い伝えで、どの家がその人であるか知っていた。

すぐ近所のおばあさんも、文盲の人だった。
そのおばあさんは母に、
「子どもの時、マンの悪いことが重なっておきた」と話していたそうだ。

ほとんどの家庭が貧しかった時代に、さらに「マンが悪い」ことがあった家庭の子どもが、
不幸にも満足に学校に行けなかった。
そういう気の毒なおじいさん・おばあさんであることは、子ども心に自然と認識していた。

・・・

 ・・・


「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

明治33年小学校令が大幅に改正された。
尋常小学校はこれを四年に統一し、三年制を認めないこととした。
高等小学校は従来通り二年、三年または四年とした。
この改正によって義務教育は四年となり、全国民に共通な四年の基礎教育の課程が成立したのである。

さらに二年制の高等小学校をなるべく尋常小学校に併置することを奨励し、近い将来、義務教育年限を六年に延長することに備えることとした

義務教育については、「学制」以来徴収されていた授業料を尋常小学校では徴収しないことを原則とし、
さらに就学の始期及び終期を学年と関連づけて明確にするとともに、
義務教育と児童労働の関係についても、学齢児童を雇備する者は雇傭によって就学を妨げることはできないこととした。
小学校の学年・学期についても、
学年は4月1日に始まり翌年3月31日に終わり、
小学校の4月の一斉入学、
進級・卒業も一斉に行うと法制化した。
学級編制については、小学校の規模を12学級以下に制限し、
また1学級定員も尋常小学校で70人以下、
高等小学校では60人以下と定めるなど小学校の形態を整備したのである。
明治の日露戦争後小学校教育は著しく発展拡充し、就学率も急速に上昇した。 

尋常科・高等科併置の小学校は、明治33年から40年までの間に二倍を越える増加を示した。
こうした小学校の設置状況を基盤に、明治40年、尋常小学校を六年制に延長した。

 

・・・

 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 第1期 (最初)の国定教科書

最初の国定教科書は 1904(明治37)年から5年間使用されました。
そのなかの「尋常小学読本 巻一」 を見てみましょう。
いすの絵にイの字、木の枝にエの字、すずめにスの字、石にシの字が書かれているページから始まっています。
ですからこの教科書は「イエスシ読本」と呼ばれました。どうしてこんな学習からはじまったのでしょうか。 
この時期は日本が統一国家づくりを急いでいた頃でした。
しかし、地方は方言が中心で標準語が確立していなかったためにコミュニケーションが難しい状態でした。 
そこで教育をとおして方言を標準語に統一することをめざしました。
方言では「イ」と「エ」と「ス」の区別がつきにくかったためこうした学習が求められました。

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