しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

明治19年、尋常4年、高小4年 (四四制)

2023年12月26日 | 学制150年

明治19年「四四制」となった。

”義務”教育ではなく、”就学義務”であった。

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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 女子の就学率を上げるため

明治10年代(1877~86年) くらいまでは女子の就学率は低く、男子の半分くらいでした。
その頃、兵庫県の田舎で小学校初等科(3年)を修了したのち、中等科3年)に進まず退学した子どものその後を調べてみると、
男子は家業の手伝い、女子は裁縫塾に通っていることが多いことがわかりました。
そのころの人々には教育の必要さがよくはわからなかったですし、実生活に役立つとも思われない学校に授業料を払ってまで、通学させるほどの
よゆうもなかったのです(「兵庫県教育史』)。
このことは全国で同じ傾向にあることが文部省もわかったのでしょう。
1880 (明治13)年に、前年に出した「教育令」を改正し「ことに女子の為には裁縫科を設けるべし」と教科編成を改めました。 
裁縫は女子の就学率をあげるための手段だったのです。

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(明治20年「学校の歴史」汐文社)

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

初代文相に就任した森有礼は、明治19年(1886) 「小学校令」をはじめ各学校種別毎の学校令を制定した。 
その小学校によって、小学校は尋常高等の二種・二段階編制となった。
学齢は従来通りであるが、就学義務については、「尋常小学科卒ラサル間ハ就学セシムヘン」(小学校令第四条)と定めている。
しかし、土地の情況によって尋常小学校の代用として、小学簡易科の設置を認めている。
同年、修業年限を高等尋常とも各四年とし、四四の制度となった。
なお尋常小学校・高等小学校の名称は、その後昭和16年に小学校が国民学校と改称されるまで、戦前、長期にわたってもちいられた。

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明治5年「学制」の制定 学校が発足(下等4年・上等小学4年)

2023年12月26日 | 学制150年

「村に不学の戸なく」の方針では統一されていたようだが、
実際の制度となると議論や課題は多く、明治5年まずスタートした。

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「創立150周年」

(井笠鉄道記念館 2023.12.22)

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文部科学省HP
2023年9月5日

学制150年記念式典
  「学制」は、すべての人々が基本的な学校教育を受けられることを目指し、小学・中学・大学から成る学校制度を定めた、我が国最初の全国規模の近代教育法令です。
  9月5日、「学制」が明治5年に公布されてから9月4日で150年を迎えたことを記念し、
天皇皇后両陛下の御臨席の下、岸田文雄内閣総理大臣、細田博之衆議院議長、尾辻󠄀秀久参議院議長、戸倉三郎最高裁判所長官、松野博一内閣官房長官を御来賓に御招きし、「学制150年記念式典」を執り行いました。
  式典では、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校の校長や園長等を対象に、
学校教育の振興に関して特に顕著な功績のあった方を「令和4年度教育者表彰」として表彰し、授賞者の代表に、永岡大臣から表彰状を授与しました。

 

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「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

明治期の小学校
制度・編制

明治5年、「学制」が発布され、わが国にはじめて近代学校制度が定められた。
「学制」によって最初に規定された小学校制度は、「小学校教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカ ラサルモノトス」とし、学区制を布き、
各小学区に小学校一校を設け、すべての学齢児童を就学させることとした。
小学校は尋常小学を基本とし、その他に女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾 幼稚小学を規定している。
尋常小学は6歳から9歳までの子どもを就学させる下等小学、
10歳から13歳までの上等小学の二段階編制とし、
四・四制を定めた。
子どもたちはまず下等小学第8級に入学し、
半年ごとに1級ずつ進級して、
さらにその後上等小学に進むこととしたのであった。

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「教養人の日本史・4」 現代教養文庫 社会思想社  昭和42年発行

「村に不学の戸なく」
1872(明治5)年8月、新しい学制とともに出された「学事奨励に関する仰出され書」が出された。
支配者だけが学問をしてきたこれまでのやり方を批判し、さらに国家のため主君のための学問でなく、自分自身のためになる学問こそが必要であると説いているのだ。
この大変近代的な学問観、教育観が、実は政府の専制主義と必ずしも矛盾しないのだ。
愚昧な人民に、政府がつぎつぎに出す改革を理解させるためだというのだ。
子供を学校にやらなければ、役場の学事係や巡査が調べにまわり処罰される。
立派な「お上」についてこいというのだろうか。
だから府県で出した就学告論が、教育の目的を「国の富強を助けて、ついに皇威を海外に輝かす」ことにおいても、政府は決しておさえなかったのである。

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「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行

明治の小学校
児童就学率向上への努力

明治5年、近代学校制度の発足によって、各地に新しい小学校が設置されようとしたことはよく知られている。
しかし、新しい「学制」の理念は必ずしも人々の要望に合致せず、無条件に人々に受容されたわけではなかった。
学齢児童を小学校へ通わせるために、岡山県のみならず各県は非常な努力を払ったのである。
岡山県はすでに見たように、藩主・代官の教育熱心、寺子屋の普及、私塾の隆盛などの背景があってか、
就学率は全国平均をかなり上回っていた。
就学率の推移
明治10年43.5%  明治15年59.8%  明治20年67.5%

学校の名前と進級
明治5年の「学制」では、全国を八大学区に分けたが、翌六年四月、これが改められ七大学区となった。
岡山県は第三大学区、小田・北条両県は第四大学区となった。
一大学区は32中学区、一中学区は210小学区に分けられ、 
学校は、何番小学というように番号でよばれた。 
明治8年3月に入って、固有名詞を校名につけるようになった。

小学は上等と下等に分かれ、
下等は6歳から9歳、
上等は10歳から13歳の各4年であった。

各小学とも入学時が8級で、
卒業時が1級となり、半年に1級ずつ進級することになっていた。

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「教育の歴史」  横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


学校制度の流れと実際


「学制」は、明治5年(1872)8月に発布された日本で最初の近代学校制度に関する基本法令である。
「この「学制」によって全国に学校が設けられ、その後近代学校は成立発展していくこととなる。
この「学制」は109章からなり、「大中小学区の事」「学校の事(小学・ 中学・大学)」「教員の事」「生徒及び試業の事」「海外留学生規則の事」 「学費の事」と分けられて規定されている。
実施にあたっては、特に小学校の設立に力が注がれ、小学校は国民すべてが就学すべきもので、六歳で入学すると規定には記されている。
また尋常小学(下等小学四年、上等小学四年)、のほかに女児小学、 村落小学、貧人小学なども小学校の種類としてあげられている。
これに基づきその九月に「小学教則」が公布され教育の内容が示された。
「学制」実施後、わずか数年の間に
児童の就学率も急速に上昇していっ た。

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就学の督促
学制発布以来、政府の重点政策は全国各町村に小学校を設立し、すべての学齢児童をここに就学させるということだった。
このため、学区取締りという、就学の督促、小学校の設立、学費の調達など学事の一切を行う機関を設けた。

かなり強力督促を行った。
府県によっては、各種の 規則を設けて督励業務の役割を明らかにした。
巡査に命じ、就学児童の取締りを行ったり、校旗を就学率によって区別するなどの例もみられた。
厳しく就学を督促するだけではなく、県の役人が各学校を巡回し優等生を表彰したり、学校でも成績優秀者へ賞品を添えた表彰や皆勤賞などの賞状を授与し、就学を奨める手段をとっていた。

学制の規定(明治5年から12年まで)では、小学校を上下二等に分け、この二等は男女とも必ず卒業しなければならなかった。 
下等小学校も上等小学校もそれぞれ六カ月ずつの八級に分けられ、
入学の際は八級から始まり、順次一級までの課程を修めて卒業となった。
また下等、上等小学校ともに段階ごとに試験があり合格しなければ、もう一度同じ級に留められることとされていた。

明治14年(1881)5月4日制定の小学校教則綱領によると、
小学校初等科・中等科は各三年、高等科は二年の三・三・二制となっている。

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「岡山の教育」  秋山和夫 岡山文庫  昭和47年発行
明治12年9月、「学制」にかわって、「教育令」が出され、「小学」という呼び名が「小学校」とされた
更に、明治14年の「小学校教則綱領」によって小学校は、初等・中等・高等の三等とされた。

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