昭和13年の秋、兵糧を現地調達しながら、大別山脈を越えて、やせ細った日本兵がようやく漢口(現・武漢市)に入城した。
国際都市漢口の倉庫には、山と積まれた米があり、飢えた日本兵は腹いっぱいにそれを食べ「いっぺんに食べ過ぎて死んだものもいた」
と、父は話していた。
おば(父の妹)は満州から引揚時、
「葫蘆島から笠岡に帰るまでの間、食べたものは博多港でもらったオニギリ二つだけ。
それで家に着いて、食べようとしたら舅が兄嫁に”いっぺんに食べさすな!”と大きな声で言った」
と話していた。
その二つの話を思い出す記事が今日、新聞に載った。
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兵糧攻めの生地獄
「歴史と旅」 昭和57年12月号 秋田書店
秀吉の軍勢による鳥取城包囲網が完成したのは七月十二日。
こうして数ある戦国の戦史の中でも最も悲惨かつ凄惨な戦い「鳥取城の兵糧攻め」がはじまる。
兵糧さえあれば、確かに鳥取城は容易に落ちる城でなく、
秀吉はとにかく新たな兵糧の搬入ができない完全包囲態勢をしき、とにかく城中の食 糧が食いつくされるのを待った。
九月ごろからは兵糧も底をつき、草や木の皮などで飢えをしのぐというありさまとなり、
さらにそれらも食べつくすと馬の肉を食べ、ついに餓死するものも出るようになった。
特に鳥取城の戦いが凄惨だったのは、 そうして餓死した人々の肉を、まだ生き残っていた城兵が食べたということであろう。
こうした、
「生地獄」(いきじごく)
を目の当たりにして、さしもの剛将吉川経家も講和開城の和議交渉に入る決断 をした。
結局、十月二十五日、経家が切腹し、城兵の命は助けられ、城は開城したのである。 (小和田哲男)
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山陽新聞 2023.12.3 (新聞記事)
鳥取城 兵糧攻め
飢餓後の多食で急死
歴史書から推察 医師ら論文
1581年の羽柴(豊臣) 秀吉による鳥取城(鳥取市) の兵糧攻めで、落城後に助け出された人たちが、かゆを大量に食べた後に死亡たのは、飢餓後の栄養摂取で起きる「リフィーディン グ症候群」と推察できるとする論文を、東京都立多摩総合医療センターの鹿野泰寛医師らのグループが2日までに発表した。
鹿野氏は「教訓的な逸話として後世に残すべきだと考えた」と話す。
鳥取城の兵糧攻めでは、3カ月以上に及ぶ籠城戦で 極度の飢餓状態が発生。
城主の吉川経家が切腹することで戦いは終わった。
ただ 織田信長の伝記「信長公記」 や豊臣秀吉の時代の出来事まとめた歴史書「豊鑑」に
「城内から助け出された人たちが食物を食べたが、過半数がすぐに死んでしま った」「かゆをたくさん食べた者はすぐに死んだが、少し食べた者は問題なかった」といった記述があっ た。
リフィーディング症候群は、低栄養状態にある人が急激に栄養を摂取することで電解質異常やビタミン欠乏症などの合併症を起こす病気で、死亡することもあ る。
鹿野氏らは食事量の違いとその後の症状の関係などから、同症候群が発生していたと確認し、論文は米医学誌に掲載された。
鹿野氏は、現代でも低栄養状態の患者に摂取する栄養量を管理する必要があると説明するときに、鳥取城 の逸話を例に出すことがあるという。
「鳥取城の兵糧攻めは、医学界ではリフィ ―ディング症候群と考えられる事例として有名な逸話 だったが、英語で医学的な 論文化はされていなかった。
海外でも患者への説明 に利用できれば、文化的財産として価値がある」と語 った。
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画像は2020.10.14・鳥取城跡