しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

芭蕉と曾良 (山中温泉)

2021年07月01日 | 銅像の人
場所・石川県加賀市山中温泉 


曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行に 、
 
行行て たふれ伏とも 萩の原   曾良

と書置たり。
行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。
予も亦 、
 
今日よりや書付消さん笠の露







北陸道をなおも歩いて山中温泉にいけば、こおろぎ橋がある。
このあたりの大聖寺川の西岸は奇岩が折り重なってつづき、鶴仙渓と呼ばれる。

行基が見つけたと伝えられる、古い温泉場の山中である。
菊の香りもおよばぬほどに、山中温泉の湯はよい匂いだ。
温泉小屋の外からは、山中節の艶っぽい歌声がしんみりと響いてくる。
ハアー薬師山から湯座屋を見れば 獅子が髪結うて身をやつす
シシとは芸者のことである。
四・四の十六、
十六歳になれば女は客席にでられるくらいの一人前になるというところからきた。


「新・おくのほそ道」  立松和平  河出書房新社  2001年発行






山中温泉

山中温泉に浴した。
その効果は有馬に次ぐという。
温泉宿の主というのは、久米之助と言って、まだ少年である。
彼の父は俳諧を好んだ。

芭蕉は7月27日に小松を発って、その夕刻、山中温泉に着いた。
同行は曾良のほかに北枝。
和泉屋という旅館に泊まった。
当主久米之助は、まだ十四歳の少年であった。
ここでは芭蕉もひどく歓待されて、ひどく居心地がよかったらしい。
長旅も終わりに近づいて、ゆっくり疲れをいやしたことと思われる。

「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行








撮影日・2020年1月28日

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芭蕉と曾良 (山寺)

2021年07月01日 | 銅像の人
場所・山形県山形市山寺  立石寺
制作・小野田高節
設置・芭蕉昭和47年、曾良平成元年


立石寺

山形領に立石寺と云山寺あり。
慈覚大師の開基にして、ことに清閑の地也。
一見すべきよし、人々の勧むるに依りて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかり也。

日いまだ暮れず。
麓の坊に宿借りおきて、山上の堂にのぼる。
岩に巌(いわほ)を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしより)、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉て物の音聞こえず。
岸をめぐり、岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ。

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

「奥の細道」





立石寺

清風が用意した馬に乗って旅の予定になかった立石寺へ出立したのは5月27日、午前8時ごろであった。
参道は昼なお暗く、夏場といえども冷風に身を包まれる。
岩場の窪んだ道が延々と谷間に続く。
まさに600年の歴史の中に人間の持つ哀しい性を感じさせられる。

「おくのほそ道」を行く 朝日新聞社 1989年発行









セミはセミ、岩は岩でいい

芭蕉が山寺でよんだ句について、
斎藤茂吉と小宮豊隆との間に、セミはアブラゼミかニイニイゼミかという論争が起こったことがある。
ほかに、井泉水はヒグラシと想像している人もいる。
故志田義秀はセミは一匹に限るという説もある。
セミが問題なら岩も問題で、
豊隆は凝灰岩であればこそ「しみ入る」と感じられる。
わたしの説は---そんなせんさくは抜きにして、この作品を文字どおりに受けとればよいと思っている。

「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行









撮影日・2019年6月29日

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