場所・広島県福山市本郷町 本郷温泉
なくなった日・2015年頃
撮影日時・2014年4月1日
祖母は病弱でなかったが、自分から病気をみつけては医者にかかる人だった。
ある年(たぶん昭和30年代のなかば)湯治場に一週間くらい温泉療養にいったことがある。
帰った祖母に、行ったのはどこだったのか聞いたら
「松永の奥のほうにある、本郷温泉というところ」と答えた。
その時、初めて本郷と本郷温泉の名を知った。
後で思うと、どうも祖母が行った頃が本郷温泉の全盛期だったようだ。
10年ほど前、管理人は近場の温泉巡りを楽しんでいたが、本郷温泉は温泉に入れるのか気になり、松永の同僚に確認したら
・・・当時、既に「末吉旅館」のみ、営業しているような、していないような・・・
「消防団などから予約がある時だけ店をしている、その日は温泉もある」(末吉旅館)
とのことだった。
このページの写真は、温泉でなく、花見として訪れたもの。
盛時を思わす和風旅館は旅館跡になっていたが、桜は大谷川に沿って風雅な感じで咲いていた。
「松永市本郷町史」 (財)弘徳協会 昭和40年発行
本郷温泉
本郷を訪れるものは先ず大谷峡の本郷温泉を尋ね、又大谷山を中心とする中野奥山一帯の松茸を狩る。
大谷峡は今や観光本郷のかんばんであるといってよい。
一帯は、
古来の共有林で山は高く水は清く、静寂閑雅で慰安保養の理想郷である。
加うるに春は桜、秋は茸、夏冬の避暑避寒、
近時は各種団体の会合や官庁商社の招宴にも大いに使用されている。
温泉組合観光協会は固より地元民一般交通関係者等の協力で、交通は至便になるし
照明、植樹、売店、道標あらゆる部面が行き届いて、松永市中第一の観光地となった。
本郷温泉の歴史
大正3年8月のことであった。
旅館を営んでいた岡田徳太郎は、別子銅山四阪島の技術者が宿泊して物語った
「鉱山の鉱坑から出る水、即ちまぶの湧水は色々な病気に効く」
にヒントを得て大谷峡に分け入って坑口から流れ出る水を汲んで帰ってみたところ、
胃病神経痛等の内部失陥にも腫物皮膚病等外部失陥にも効用顕著ということで忽ち評判になり、
鉱水を求める者がつめかけてきた。
村役場を通じて広島の衛生試験場へ送ったが分からず、大阪の内務省衛生試験所に依頼したら、
次の結果が報告された。
気管支、胃腸病、脚気、肺病、子宮病、月経不順、貧血病、梅毒、皮膚病、痔疾、田虫、其の外。
当時は温泉の分析など、まだ数少ない時であったので
「大谷の鉱水はラジウムがある」これが人気を愈々沸騰させた。
大正6年、岡田は温泉場を開業した。
経験の不備が現れ(導水管破裂、浴室の腐敗など)で開業10年余りで休業。
御領の表田幸一氏が、病人救済のためラジウム温泉再興を思い立ち昭和25年当時の村長に
この旨申し出た。
表田氏の鉱石や薬草に対する知識や鉱泉の薬効に関する自信にうたれ、5ヶ年に限り村有地と鉱水の使用を許可した。
これが今日のきっかけで、表田氏の功績は永く忘れてはならない。
「松永市本郷町史」 (財)弘徳協会 昭和40年発行
なくなった日・2015年頃
撮影日時・2014年4月1日
祖母は病弱でなかったが、自分から病気をみつけては医者にかかる人だった。
ある年(たぶん昭和30年代のなかば)湯治場に一週間くらい温泉療養にいったことがある。
帰った祖母に、行ったのはどこだったのか聞いたら
「松永の奥のほうにある、本郷温泉というところ」と答えた。
その時、初めて本郷と本郷温泉の名を知った。
後で思うと、どうも祖母が行った頃が本郷温泉の全盛期だったようだ。
10年ほど前、管理人は近場の温泉巡りを楽しんでいたが、本郷温泉は温泉に入れるのか気になり、松永の同僚に確認したら
・・・当時、既に「末吉旅館」のみ、営業しているような、していないような・・・
「消防団などから予約がある時だけ店をしている、その日は温泉もある」(末吉旅館)
とのことだった。
このページの写真は、温泉でなく、花見として訪れたもの。
盛時を思わす和風旅館は旅館跡になっていたが、桜は大谷川に沿って風雅な感じで咲いていた。
「松永市本郷町史」 (財)弘徳協会 昭和40年発行
本郷温泉
本郷を訪れるものは先ず大谷峡の本郷温泉を尋ね、又大谷山を中心とする中野奥山一帯の松茸を狩る。
大谷峡は今や観光本郷のかんばんであるといってよい。
一帯は、
古来の共有林で山は高く水は清く、静寂閑雅で慰安保養の理想郷である。
加うるに春は桜、秋は茸、夏冬の避暑避寒、
近時は各種団体の会合や官庁商社の招宴にも大いに使用されている。
温泉組合観光協会は固より地元民一般交通関係者等の協力で、交通は至便になるし
照明、植樹、売店、道標あらゆる部面が行き届いて、松永市中第一の観光地となった。
本郷温泉の歴史
大正3年8月のことであった。
旅館を営んでいた岡田徳太郎は、別子銅山四阪島の技術者が宿泊して物語った
「鉱山の鉱坑から出る水、即ちまぶの湧水は色々な病気に効く」
にヒントを得て大谷峡に分け入って坑口から流れ出る水を汲んで帰ってみたところ、
胃病神経痛等の内部失陥にも腫物皮膚病等外部失陥にも効用顕著ということで忽ち評判になり、
鉱水を求める者がつめかけてきた。
村役場を通じて広島の衛生試験場へ送ったが分からず、大阪の内務省衛生試験所に依頼したら、
次の結果が報告された。
気管支、胃腸病、脚気、肺病、子宮病、月経不順、貧血病、梅毒、皮膚病、痔疾、田虫、其の外。
当時は温泉の分析など、まだ数少ない時であったので
「大谷の鉱水はラジウムがある」これが人気を愈々沸騰させた。
大正6年、岡田は温泉場を開業した。
経験の不備が現れ(導水管破裂、浴室の腐敗など)で開業10年余りで休業。
御領の表田幸一氏が、病人救済のためラジウム温泉再興を思い立ち昭和25年当時の村長に
この旨申し出た。
表田氏の鉱石や薬草に対する知識や鉱泉の薬効に関する自信にうたれ、5ヶ年に限り村有地と鉱水の使用を許可した。
これが今日のきっかけで、表田氏の功績は永く忘れてはならない。
「松永市本郷町史」 (財)弘徳協会 昭和40年発行