しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

松永の「本郷温泉」

2021年07月03日 | 無くなったもの
場所・広島県福山市本郷町  本郷温泉
なくなった日・2015年頃
撮影日時・2014年4月1日

祖母は病弱でなかったが、自分から病気をみつけては医者にかかる人だった。
ある年(たぶん昭和30年代のなかば)湯治場に一週間くらい温泉療養にいったことがある。
帰った祖母に、行ったのはどこだったのか聞いたら
「松永の奥のほうにある、本郷温泉というところ」と答えた。
その時、初めて本郷と本郷温泉の名を知った。

後で思うと、どうも祖母が行った頃が本郷温泉の全盛期だったようだ。

10年ほど前、管理人は近場の温泉巡りを楽しんでいたが、本郷温泉は温泉に入れるのか気になり、松永の同僚に確認したら
・・・当時、既に「末吉旅館」のみ、営業しているような、していないような・・・
「消防団などから予約がある時だけ店をしている、その日は温泉もある」(末吉旅館)
とのことだった。


このページの写真は、温泉でなく、花見として訪れたもの。
盛時を思わす和風旅館は旅館跡になっていたが、桜は大谷川に沿って風雅な感じで咲いていた。




「松永市本郷町史」 (財)弘徳協会  昭和40年発行

本郷温泉

本郷を訪れるものは先ず大谷峡の本郷温泉を尋ね、又大谷山を中心とする中野奥山一帯の松茸を狩る。
大谷峡は今や観光本郷のかんばんであるといってよい。
一帯は、
古来の共有林で山は高く水は清く、静寂閑雅で慰安保養の理想郷である。
加うるに春は桜、秋は茸、夏冬の避暑避寒、
近時は各種団体の会合や官庁商社の招宴にも大いに使用されている。
温泉組合観光協会は固より地元民一般交通関係者等の協力で、交通は至便になるし
照明、植樹、売店、道標あらゆる部面が行き届いて、松永市中第一の観光地となった。






本郷温泉の歴史

大正3年8月のことであった。
旅館を営んでいた岡田徳太郎は、別子銅山四阪島の技術者が宿泊して物語った
「鉱山の鉱坑から出る水、即ちまぶの湧水は色々な病気に効く」
にヒントを得て大谷峡に分け入って坑口から流れ出る水を汲んで帰ってみたところ、
胃病神経痛等の内部失陥にも腫物皮膚病等外部失陥にも効用顕著ということで忽ち評判になり、
鉱水を求める者がつめかけてきた。
村役場を通じて広島の衛生試験場へ送ったが分からず、大阪の内務省衛生試験所に依頼したら、
次の結果が報告された。

気管支、胃腸病、脚気、肺病、子宮病、月経不順、貧血病、梅毒、皮膚病、痔疾、田虫、其の外。

当時は温泉の分析など、まだ数少ない時であったので
「大谷の鉱水はラジウムがある」これが人気を愈々沸騰させた。

大正6年、岡田は温泉場を開業した。
経験の不備が現れ(導水管破裂、浴室の腐敗など)で開業10年余りで休業。

御領の表田幸一氏が、病人救済のためラジウム温泉再興を思い立ち昭和25年当時の村長に
この旨申し出た。
表田氏の鉱石や薬草に対する知識や鉱泉の薬効に関する自信にうたれ、5ヶ年に限り村有地と鉱水の使用を許可した。
これが今日のきっかけで、表田氏の功績は永く忘れてはならない。


「松永市本郷町史」 (財)弘徳協会  昭和40年発行





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宮城道雄

2021年07月03日 | 銅像の人
広島県福山市鞆町  鞆城跡





”春の海”はラジオなどで聴くことがあった。
宮城道雄という目の不自由な人が鞆の海で作った、という話は子どもの頃からよく耳にしていた。

琴と笛が調和して、いかにも鞆の浦、さらに瀬戸内海のイメージがぐんぐん広がっていく。
いつ聞いても、これ以上ない和風の名曲だと思える。







(Wikipedia)

宮城道雄

別名 中菅道雄、宮城検校
出身地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市
ジャンル 箏曲
職業 作曲家・箏曲家
担当楽器 箏

宮城 道雄(みやぎ みちお〈明治27年4月7日 - 昭和31年6月25日)は、日本の作曲家・箏曲家である。
兵庫県神戸市生まれ。。十七絃の開発者としても知られる。大検校であったため、広く『宮城検校』と呼ばれた。
『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。
作家の内田百閒とは親友同士であり、交友も深く、双方の随筆でたびたび言及していた。








撮影日・2020年9月14日


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水野勝成

2021年07月03日 | 銅像の人
場所・広島県福山市丸の内  福山城公園






福山藩の誕生


カリスマ武将・水野勝成

福島正則の改易により神辺城と築城中の鞆城が明け渡され、元和5年(1619)に大和国郡山から水野勝成が備後国南部に転封されました。
備後国7郡と備中国2郡を支配する10万石大名の格式を得ました。
勝成は徳川家康と従兄弟にあり、ともに百戦錬磨で戦国の世を潜り抜けた間柄で、「鬼日向」とも称されたように、戦場では先陣を切る武断派として名をはせました。
75歳まで藩政に君臨し、88歳という長寿をまっとうしたことも、勝成のカリスマ性を高めたことでしょう。

寛永15年(1637)、キリシタンが蜂起した島原の乱を鎮圧するため、
幕府は諸藩の軍事力を大動員し、勝成は家臣団をはじめ領民をも徴発して約6.000人の軍団を編成しました。
従軍した勝俊親子の軍功を勝成が称えています。
また熊本城受け取りの動員も大きな出来事でした。
軍団派遣は、家臣団の士気を高め、指導者である勝成に臣従させる絶好の機会でした。

城下町建設に加えて、勝成・勝俊親子は大規模な新開地造成をおこないました。
領民に扶持を与えて普請に動員し、増員が必要な場合には、鞆や笠岡の町場から労働力を補充しました。
寛永の飢饉に襲われてからは、百姓が飢えて農業を続けていけないので、農閑期に扶持を与えて新田開発に使った点も注目しておくべきでしょう。
「走り百姓」(他領に逃げ出すこと)を出さない措置でもあり、失業者救済のための公共事業と同じ役割を果たしていました。


「福山市史 原始から現代まで」  福山市  2017年発行










「広島県の歴史散歩」  広島県の歴史散歩研究会  山川出版社  1976年発行


福山城跡

近世福山の歴史は、水野勝成が神辺から芦田川河口の常興寺山にうつして築城させ、元和8年(1622)福山城として完成したことにはじまる。
築城にあたっては一国一城令によって解体された伏見城の遺構のうち松の丸櫓・火打ち櫓・月見櫓・筋鉄御門・御湯殿などを拝領し、
城壁の石は瀬戸内海の白石島・北木島から運び、木材は遠く東北地方からもはこばれたといわれている。

城の完成後は城下町の形成にも力を入れ、
武家屋敷・町屋・大工・医者・寺院などの配置を考えており、
さらに神田上水についで全国でもさきがけとなる上水道を敷設し、
干拓地のうえに近世でもっともすぐれた市街地を完成させた。
のち水野家が断絶した後は松平氏・阿部氏の居城となったが、明治維新のさい建物の多くはとりこわされた。










「日本名城100選」 鳥羽正雄監修  秋田書店 昭和44年発行

福山城

福山城は一名、葦陽城という。
水野勝成が築いた名城である。時に元和6年(1620)のことである。
前年に備後半国(西部)10万石を与えられた勝成は最初、神辺城にいたが、
神辺城は山城で規模もさして大きくなかったため、躊躇なく常興寺山(今の福山城)に新しい城を築こうと決した。
五層の複合天守を中心に、23基の櫓を周囲に乱立させた。
勝成は城下の整備にも心をくばった。
河口を埋め立て30余町の城下を建設し、上水道を敷いた。
街の縦横にクリークを張り込ませ、そこから木や竹製の樋で水を流していた。





撮影日・2018年3月29日

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