しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「愛国行進曲」

2021年07月06日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
盧溝橋事件後、大々的に全国民に普及させようとした大日本帝国政府、マスコミ、レコード会社による国策歌謡曲。
発狂した国家が、国民をも発狂にまきこもうとした流行歌。
村長さんや校長先生がいる前で歌う歌。

現代の人が歌詞を読めば、夜郎自大ぶりに頭がくらくらする。
親の世代は、(他国の話でなく日本)市中でこうゆう歌を唄わせれられていた。





愛国行進曲


見よ東海の空あけて旭日高く輝けば
天地の正気(せいき)溌剌と希望は躍る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の 朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌無欠(きんおうむけつ) 揺るぎなき
わが日本の誇りなれ


起(た)て一系の大君(おおきみ)を光と永久に戴きて
臣民我等皆共に御稜威(みいつ)に副はむ大使命
往け八紘を 宇(いえ)となし
四海(しかい)の人を導きて 正しき平和うち建てむ
理想は花と咲き薫る


いま幾度か我が上に試練の嵐 哮(たけ)るとも
断固と守れその正義進まん道は一つのみ
ああ悠遠(ゆうえん)の神代より
轟く歩調うけつぎて 大行進の往く彼方
皇国つねに栄あれ






~公募戦時歌謡の氾濫~

新聞社はこぞって、戦争を参加する歌を募集する。
愛国行進曲は、事変が起こった時内閣から
大日本帝国の進むべき道と、国民の士気を高揚する目的で、新作を企画した。
歌詞公募には、一ヶ月足らずで5万7千の応募があった。
審査には,佐佐木信綱、北原白秋といった一流の詩人が当たり、
当選歌詞には
「八紘一宇」だの「大八洲」天皇の「御稜威」といった軍国日本の御題目を折り込むよう示唆されていた。

佐佐木信綱はストレートに入れてよしとする肯定派だったが、天成の詩人・北原白秋は歌だから詩的にいくべきだと主張し意見が対立。
結局、佐佐木の意見が通り、わずか一、二行を残した以外、原作の影も形も消し飛んだ”第二の国家”の誕生となった。

補作された「愛国行進曲」に九千五百の曲が応募され、山田耕作、信時潔、堀内敬三らの厳正な審査で退役海軍軍楽長が入選した。
内閣のお墨付きを受け、レコード界初の全社競争を強いられ、各社は看板歌手を起用して吹きこみががなされた。
情報部挙げての宣伝も行き届き、当時として延べ百万枚の記録的大ヒットとなった。

「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行












愛国行進曲


昭和13年4月1日、国家総動員法が公布。
この法律によって、必要となったら議会を通さず勅令ひとつで国家総動員業務に就労させるのが自由になった。




見よ 東海の空明けて・・・

旗行列の時に歌うのも『愛国行進曲』、
足並みそろえての行進にも『愛国行進曲』

戦時下の教育は鍛錬ということがしきりにいわれ、
背の低い子ども、体の弱い子どもは、いやでも影のうすい存在になってしまった。

学校から配布される『児童手帳』が、『学級手帳』に代わった。
一頁目に、「私たちの誓」の欄が新たに加えられた。

一、私たちは常に日本人に生まれたことを喜び、天皇陛下のおんためにつとめます。
一、私たちは常に父母に感謝し、よく言ひつけを守り、親を安心させます。
一、私達は常に人を敬ひ、どなたにも親切をつくします。
一、私達は常に丈夫なからだと、強い心をきたへます。
一、私達は常に〇〇小学校の良い生徒であることを思ひ、よく先生の教へを守ります。


「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。





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暴支膺懲(ぼうしようちょう)

2021年07月06日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
昭和12年、盧溝橋事件にはじまる日中戦争の原因は、多くの学者や政治家や旧軍人がいろんな説を述べているが、
いまひとつはっきりしない。
管理人が思うに、日中戦争は、
中国が「日本のいう事をきかない」ので、膺懲した、という単純な原因のように思える。





暴支膺懲(ぼうしようちょう)

日本の歴史 第15巻」  大門正克著 小学館 2009年発行

昭和12年7月7日、北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した。
盧溝橋事件である。
ここから長きにわたる日中戦争が続くことになる。

その前年西安事件がおき、国共内戦は停止していた。
日本の軍部は中国側の民族的抵抗を軽視し、民族的蔑視のもと華北制圧を強める。

昭和12年6月4日に国民と軍部の強い支持を得て、近衛文麿内閣が成立した。
政府は不拡大の方針をとったが、陸軍は「一撃」を加えれば中国側はたやすく屈服するとした強硬論が有力で、
政府も傾き華北へ派兵が決定された。

8月には上海でも衝突(第二次上海事件)、戦線は拡大する。
盧溝橋事件では日本は宣戦布告はせず、事変(支那事変)と位置づけた。
戦争目的は「暴戻支那の膺懲」と述べた。
「ヨーチョー」である。

9月第二次国共合作。
12月、日本軍は首都南京を占領。
捕虜を始め、一般住民が多数虐殺された。

昭和13年1月
「国民政府を相手にせず」という声明を発表。
徐州作戦、武漢・広東作戦を経て日中戦争は長期持久戦となる。

昭和13年12月、近衛首相は欧米列強による支配からアジアの解放、日満華の連帯をうたった「東亜新秩序」の建設を声明した。
これ以降、中国との戦争は東亜の平和、安定をめざすためと説明された。

昭和14年4月、近衛内閣は国家総動員法を公布した。この法により、議会の承認なしに物資や労働力など統制できるようになった。






「日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 


近衛文麿の登場

貴族院議長公爵近衛文麿が、
「国内がたがいに軍官民に対立してたたかっているのを一掃する」と、
国民の期待をになって6月4日、第一次近衛内閣を組織した。
しかし、組閣して一か月後には、日中間の全面戦争が開始された。
軍部は、西安事件以来中国に高まった抗日民族統一戦線をつぶそうと考えていた。

昭和12年(1937)7月7日、北京郊外盧溝橋で軍事衝突が起こった。
中国への軍事的侵略を待ち望んでいた日本軍は、ただちに中国軍にたいして攻撃を開始した。

7月28日、華北へ続々と軍隊を派遣し、中国軍にたいして総攻撃を開始した。
29日までに北京・天津および付近の要地を占領。
8月13日、海軍は上海で戦闘を始めた。
8月15日近衛首相は、
「日本は今まで我慢に我慢を重ねてきたが、もはやゆるしておけなくなった。
支那軍の乱暴で道理にはずれた行為をこらしめるために断乎たる処置をとる」
という声明を発表し、中国との全面的な戦闘開始を宣言した。

近衛内閣は、戦争はこれ以上拡大しないとたえず声明を繰りかえした。
しかし、実際は中国全土へ戦線は拡大していった。

杉山元陸相は、
日中戦争は二ヶ月で片づけると天皇に大言していたが、中国軍隊と民衆の強い抵抗の前で苦戦をつづけた。
11月5日上海の危機をきりぬけ、
12月13日、首都南京を占領した。
日本軍は近代戦史上最大といわれる大虐殺をおこなった。
虐殺された数は、
東京裁判では11万9千人とされ、エドガー・スノーによれば上海・南京の進撃中に30万人の中国民衆が殺されたといわれている。
とくに、日本軍の中国婦人にたいする暴行事件は2万件を数え、その1/3が白昼おこなわれた。









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