しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  広島県

2021年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「広島県史 近代2」  広島県  昭和56年発行


日中戦争の勃発

満州事変後、華北への勢力拡大をはかり、アメリカ・イギリスとの対立を強めて国際的孤立化の道をたどりつつあった日本は、
抗日・反帝国主義運動が高まる中国で、昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋において衝突事件をおこした。
事変は拡大の一途をたどり、全面的な日中戦争に発展した。
7月10日には、広島の第5師団など内地3師団の華北への派兵を決めた。
ところが、この日、現地の北京では停戦協定が成立していた。
協定調印の報を受けた中央では関東軍および朝鮮軍よりの増援部隊のみを派遣することをきめ内地師団の動員を留保した。
しかし、その後現地で日中間に事件がおこったこともあって、7月27日には動員を命令した。
兵士は順次宇品港から華北の戦線に向けて出征していった。

中国側でも徹底抗戦の決意が全民族的な規模で高まってきたので、いまやとどまるところを知らない拡大の道を歩み始めていた。

8月13日戦火は上海にも飛び火し、15日政府は
「支那軍の暴戻を膺懲」するため
「今や断乎たる措置をとるに已むなきに至れり」
との声明を発表した。

9月2日には、拡大した戦争に即して「北支事変」を「支那事変」と改称することにきめた。

11月20日大本営が設置され、南京占領の翌月、
13年1月には「国民政府を対手とせず」との政府声明を発表した。
こうして、戦いは長期戦に発展していったのである。










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昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県苫田郡

2021年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「奥津町史・下巻」  奥津町  平成17年発行


盧溝橋事件と呼ばれる日中両軍の軍事的衝突は、真に平和を希求する姿勢があったなら、
日中戦争はなかったかもしれない。
しかし日本では満州国成立後、華北分離工作が画策されていた。
中国の華北5省(河北・山西・山東・チャハル・綏遠省)を中国から分離させて、
日本の支配下に組み入れ。この地域に親日政権を樹立させた。

こうした動きに対して、中国共産党は昭和10年に8.1宣言を発表し、
国民党に内戦停止と抗日救国のために統一戦線の結成を呼び掛けた。
西安事件により中国では国共合作による統一戦線が成形された。

昭和12年7月7日、夜間演習で1名の点呼者がいない、
連隊長牟田口大佐は直ちに部隊の出動を命じた。
不明の兵は翌日帰還したが、この事件が終わりなき日中間の全面戦争の原因になった。

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昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県小田郡

2021年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「矢掛町史」 矢掛町史編纂委員会 ぎょうせい 昭和57年発行



昭和12年7月に勃発した日華事変は挙国一致とか尽忠報国などの言葉とともに拡大を続け、
次々に大規模な軍事動員が行われ、出征した郷土部隊の奮戦ぶりが「赤柴部隊の活躍」として
華々しく新聞の号外で伝えられた。


(赤柴部隊の号外)



また、出征軍人に送る「千人針」を求める婦人や武運長久を祈る神社参拝の群れが多くみられ、
駅頭では出征軍人を送る日の丸の旗の波や、
手に手に日の丸の小旗をうちふる小学生たちの「万才」の声がしばしばわき起こったのである。

矢掛町でも同年8月29日には銃後の守りを固くする義務から銃後後援会ならびに軍友会が結成され、
3月には県の満蒙開拓青年義勇団も第一次隊171名が訓練所へ出発している。





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