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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陽明丸とシベリア出兵⑪「シベリア出兵」なぜ7年も続いたのか・・・6

2019年06月22日 | 大正
この中公新書を読んでいて、その後の日中戦争とあまりに類似していると思ったが、著者もその事を最後に記している。

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記⑥
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ソ連と国交樹立へ—1923~1925
1923年8月、加藤首相が胃がんで死亡。9月関東大震災。
山本権兵衛内閣が発足。
1924年2月イギリスがソ連を承認、以後各国がつづく。5月には中ソが国交樹立。
1924年6月、加藤高明首相となる。
1925年1月、日ソ基本条約調印。
同時に共産主義取り締まりの為「治安維持法」を制定した。
1925年5月15日、北サハリンから撤兵した。

北サハリンの利権獲得
シベリア出兵で唯一獲得した利権である、石油石炭。
三井三菱などの財閥出資で「北樺太石油会社」ができた。
初期の数年は順調であったが、1930年代になるとソ連の圧力で経営悪化。
日中戦争開戦後はほぼ操業停止した。

日露の犠牲者数
7年間で戦死2643人、病死690人。
ロシアは8万人という推計もある。

日露の経済損失
国家財政は7億。
ソ連がロシア帝国の債務引継ぎを拒否したので2.9億が未回収。

機密扱い
これほど多くの犠牲を生みながら、第二次世界大戦前に、国民はシベリア出兵からほとんど教訓を得られなかった。
戦史の大部分は公表されなかった。

・・・・・・

なぜ7年も続いたのか

統帥権の独立
首相に国務大臣への命令権はない。陸相・海相と協力関係にあることが前提となる。
問題は参謀本部、
首相と陸相が連携して抑え込む。
元老も無視できない。

親日政権の樹立に失敗。
死者への債務、「土産」が必要になる。
シベリア出兵と日中戦争の類似、二重外交、広大な空間。


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陽明丸とシベリア出兵⑩「シベリア出兵」沿海州から撤兵1921年・・・5

2019年06月22日 | 大正
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記⑤
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国内の不評
1921年1月時点で戦死者は1.017名。尼港事件の興奮も冷め、各紙は批判を増した。
田中陸相は、北サハリン以外からは撤兵が得と首相に話す。

極東共和国との外交交渉
この頃、(1921年4月)
欧州ではソビエト政府を迎え入れようとしていた。
極東共和国から国交樹立の覚書が届く。
交渉が成立すれば沿海州と北満州から撤兵することを閣議決定。
撤兵の代償を求める日本と、撤兵なくして利権なしの極東共和国の、双方の隔たりは大きかった。

ワシントン会議
アメリカは自国が撤兵後も、なお出兵を続ける日本に、再三抗議していた。
国務長官は「日本がシベリアの地での利権を得る事を認めない」と幣原大使に手渡している。

原首相暗殺
1921年11月4日、東京駅で暗殺された。11月25日には皇太子が摂政に就任した。
翌1922年1月元老山県が病死した。

追い込まれる日本・・1922年
ついに日本は内外の圧力により撤兵を強いられる状況になった。
その理由は、
ロシアの反革命の敗北が必至になったこと
ワシントン会議で撤兵を明言させられたこと
国内で野党と世論が撤兵を迫ったこと

無条件撤兵
原敬後の首相は高橋是清が就任した。
閣僚たちも、撤兵の条件をいう段階は過ぎつつあることを承知していた。
高橋内閣は政党の内紛で辞職し、加藤友三郎海相が組閣した。
加藤首相兼海相は撤兵を急いだ。
1922年6月24日、
「10月に撤兵断行」が内外に発表された。

ウラジオストク陥落
極東共和国軍は、日本軍との衝突を避けようと、ウラジオストク強行突破を控えた。
撤兵期日の10月25日、
最後の輸送船に乗って撤収した。
立花司令官は、共和国軍司令官に「閣下の高明公平なる措置により、両軍矛を交ゆるの惨禍を避け」たと称えている。
こうしてウラジオストクは陥落した。
上陸してから4年3ヶ月が流れていた。

ロシア難民
約7.000人が朝鮮に上陸後、世界に散っていった。

極東共和国の清算
日本との緩衝材であった極東共和国は用済みとなった。
1922年12月30日、ソ連の成立により幕を閉じた。

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陽明丸とシベリア出兵⑨「シベリア出兵」1920年北サハリン・・・4

2019年06月22日 | 大正
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記④
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北サハリン派兵
1920年日本軍はアムール州とザバイカル州から撤退し、沿海州南部と北満州の中東鉄道沿線に兵力を集中させた。
その一方で、別の地域に派兵を始める矛盾した行動に出る。
尼港事件の謝罪と代償を求めることを大義名分としている。
保障占領は石油の保障で、日本海軍が以前より北サハリン油田を狙っていた。

尼港事件
1920年3月11日、武器引き渡しを迫るパルチザンに、日本軍が民間人と共にパルチザンを襲撃した。
ところが中国の艦隊や、朝鮮人住民もパルチザンに味方し、日本人大半が戦死した。
尼港の状況は4月になって断片的に東京に伝わってきた。
尼港事件は、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇で、日本の国際的な孤立を際立たせていた。
しかし国内ではその点に目は向かず、犠牲者に外交官・民間人・女性子供が含まれているのに衝撃が走った。
4月9日、原内閣は救援軍派遣を閣議決定する。
6月3日、事件現場の尼港に到着。街は焼き払われ、捕虜は全員殺害されていた。
外務省は、日本人735名殉難者とする文書を発表した。
7月3日、日本政府は北サハリンを「保障占領」することを宣言した。ロシアの政府が、尼港事件を解決するまでの担保としての占領を意味した。
アメリカは尼港でなく、なぜ北サハリンか疑問を呈した。

北サハリン
南サハリンから移住する人が、その年1.600人。
「都下の流浪の民をサハリンに送出」する依頼者が原首相を訪れている。
炭鉱・油田の民間資本が参入し、海軍が監督下に置いた。
海軍の船舶はカムチャッカ半島まで出動するのが日常化された。

間島への越境
1920年末になると、シベリアでは出兵を続けても先が無いことは明らかだった。
反革命軍に駒もいなかった。
原首相はウラジオストクにこだわりがあった。
植民地の朝鮮と、利権を持つ満州への、共産主義の波及だった。
1920年秋、間島へ派兵した。
間島は、中国・朝鮮・ロシアの国境が接する地方で、現在中国吉林省の朝鮮自治州。
間島には朝鮮人の抗日活動家が多く、日本領事館が襲撃された。
1920年10月7日、間島派兵が決定した。
間島の主権を有する中国が反対した。


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陽明丸とシベリア出兵⑧シベリアでの攻防1919年・1920年「シベリア出兵」・・・3

2019年06月22日 | 大正

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記③

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日本人の野心
北一輝は、レーニンに「西シベリアの割譲」を要求すべしと主張
した。
田鍋安之助は、シベリアの自由経済、鉄道譲渡、モンゴル保護国、ザバイカル州以東は親日派統治させると主張。

兵士たち
10月よりの極寒で、凍傷、睡眠、静止も不可能なことがあった。
パルチザンのゲリラ戦に翻弄された。
兵士のモラルは弛み、「北のからゆかさん」は需要が急増した。
「滅法高価だが、明日をも知れぬ我が命だと、兵隊はここに遊びに行く」、将も兵も通い詰めた。
梅毒は軍隊の最大恥辱と、申告しない兵もいた。

コルチャーク政権
海軍軍人コルチャークは英国の後ろ盾を得て、シベリアのオムスクにある「全ロシア政府」の陸海軍大臣になった。
クーデターで独裁者となり、オムスクを起点にモスクワへ進軍しようとする。
1918年12月には、ウラル山脈を越え、翌年春には13万人以上に膨れ上がる、数も装備も赤軍を上まわった。
コサックも支援した。
勢いにのるコルチャークにシベリア各地の反革命派がなびく。
ホルバートは早々に恭順し、役職を得た。
セミョーノフは独自の勢力を育てようとした。
コルチャーク軍は1919年3月大攻勢を開始した。
一か月後には「モスクワを占領する」と豪語した。
小麦と工業を奪われソビエト政府は存亡の瀬戸際に立たされた。
その勢いを見て日本はコルチャーク政権承認が決まった。
鉄道の一部譲渡や漁業権も交渉を期待できた。
大使には貴族院議員の加藤恒忠が就任した。
加藤は10月に赴任して、ハバロフスクなど政権の支配地域に領事館を開館した。
コルチャークが席巻していた頃、パリで講和会議が開かれていた。
英米はソビエトとカルチャークの両国を招待しようとしたが、
仏がボルシェビキのいような「犯罪的政権」とは、いかなる協定を結ぶことができないと拒否した。
1919年5月、日米英仏伊の首脳はコルチャーク政権支援が決まった。
しかし、時を同じくして
コルチャーク軍は急速に崩壊しつつあった。
赤軍の反撃
コルチャーク政権で、財政は混乱し、物価は上昇した。
鉄道沿線は戒厳令、令状なしの逮捕、裁判抜きの銃殺が茶飯事となった。
モスクワでは、食糧を与える条件で兵を集めた。
6月ウファを奪回した、これが内戦の天王山となり以後コルチャーク軍は、東へと後退していった。
コルチャーク軍は急速に崩壊する。
1919年11月11日、首都をオムスクからバイカル湖近くのイルクーツクへと移した。
イルクーツクへ移った加藤恒忠大使は派兵を要請した。
幣原喜重郎駐米大使はランシング国務長官にシベリア派遣軍の増強を要請したが、既に撤兵を決めていた。
1920年1月コルチャークは革命軍に引き渡され、2月銃殺された。
各国は赤軍との衝突を避けようと、撤兵を急ぐ。

撤兵
1919年2月、カナダは撤兵を決め、6月大部分が撤兵した。
1919年10月、イギリスが撤兵完了。フランスは9月から撤兵開始。

チェコ軍
1919年、チェコの独立は各国に認められ、シベリアに残る理由はなくなったが、
英国や仏国には、駒にしようという思惑があった。
日本は1920年チョコと外交関係を持ったが、チェコ軍が反革命軍という性格を失ったので現地日本軍との関係は悪化した。

日本軍の独行
1920年1月、アメリカから撤兵が通告された。
日本は、今後は単独でシベリア駐在することや、派兵や撤兵は自由にさせてもらうと伝えた。
こうして共同出兵は、最後までかみ合わなかった。
原首相は撤兵するために追加の派兵を決めた。
コルチャークの処刑後、シベリアの勢力図は瞬く間に赤軍へと塗り替わった。
1920年1月31日ウラジオストクがパルチザンに占領された。
1920年4月5日ウラジオ派遣軍がシベリア鉄道沿線を攻撃、ハバロフスクでは市街戦が繰り広げられ、結局沿海州を武力で制圧した。東京では寝耳に水だった。
その頃、ソビエトは南ロシア反革命軍やポーランドと国境線の戦があった。

極東共和国
日本が駐留をつづけるザガイカル州では日本が支援するセミョーノフが居座っていた。
現地の軍人たちは、極東に緩衝国家をモスクワに上伸した。
1920年4月6日、極東共和国の建国が宣言された。
支配区域は、
ザバイカル州、カムチャッカ州、サハリン州、アムール州、沿海州で、
それらは反革命軍や日本軍が占領する区域だった。
1920年5月24日、極東共和国と日本とで停戦交渉が始まった。
1920年6月1日、内閣はザバイカル州から撤兵することを閣議決定した。9月2日までにウラジオストクに移動した。

欧州
1920年10月、ロシア・ポーランドは休戦。
1920年秋、ヨーロッパのロシア内戦は終わった。
1920年10月19日、極東共和国軍はザバイカル州で総攻撃、支配下にした。

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