平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




関大明神社の創建は不詳ですが、古来この地は西国から京都に入る要衝で、
社地は山崎関跡とされ、
関の神を祀ったのが起こりと考えられます。


祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・天児屋根(あめのこやね)命と伝えます。
平安時代に関は廃止され、跡地に公営宿泊施設の関戸院が設けられ、
貴族や官人が宿泊や休憩に利用しました。
ここは西国へ向かう貴族と見送りの人が別れを惜しんだ地でもあり、
平兼盛やしろめ、大江嘉言などの和歌が歌集にみえます。

ここはまた木曽義仲に追われ、都落ちした平家一門が
安徳天皇の輿をおろし別れを惜しんだ地です。
『平家物語』によると、「山崎の関戸の院に玉の輿をかきすえて、
平大納言時忠が男山を伏し拝み、泣く泣く京都還幸を祈った。」とあります。
安徳天皇は六歳とまだ幼かったため、母の建礼門院と同じ輿に乗り、三種の
神器を携え、甲冑に身を固め弓矢を携えた軍兵に取り囲まれての物々しい行幸です。

さまざまな思いをこめながら都を落ちた平家の人々は、
前内大臣宗盛以下、一門に連なる公卿・殿上人・僧・侍などその勢7千余騎。
安徳天皇の輿を山城・攝津との国境・関戸院(現、関大明神社)におろしました。

JR山崎駅前から南に100mほど進むと旧西国街道にでます。
この街道を西へ歩くと、溝があります。
この溝が東側の山城国(京都府)と西側の摂津国(大阪府)の境界で、
現在も府境となっています。


山城と摂津の国境に建つ「従是東山城国(これより東山城の国」と刻んだ碑
 
玉垣に囲まれ、国境付近に建つ関大明神社

一間社流造の本殿


関大明神社  (現地説明碑)
「当社のはじめりは不明ですが、当地が古代摂津国と
山背国(後の山城国)の関所である山崎の関の跡といわれ、
関守神または辻神を祭ったのが起こりではないかと思われます。
この関所は当時、交通の要であり、時には朝廷が兵を派遣し、
守らせるほど重要なところでした。しかし、平安時代のはじめのころには
関は廃止されていたらしく、その跡地には関戸院という施設が置かれ
藤原道長や平家一門など貴族や官人の宿泊に利用されていたようです。
現在の本殿は室町時代中ごろに建てられたと思われ、
大阪府の重要文化財に指定されています。
祭神は大巳貴命・天児古屋根命又は大智明神。」


寿永2年(1183 )7月25日、都落ちする平時忠が対岸の男山の
石清水八幡宮を遥拝し
「願わくは帝をはじめ我らを再び都へお帰しください。」と
祈られたのはいかにも悲しいことです

保元・平治の乱の後、春の花のように咲き誇り栄華を極めた平家が、

今や秋の紅葉のように散り果てようとしていました。
安徳天皇の外戚であり公卿・殿上人の連なる平家が都を追いだされ、
せんかたなく西国に落ちていこうとは誰が思ったでしょうか。

山崎より対岸の男山を望む

都の空をふり返ると空が霞んだようになって陽の光も見えず、
六波羅炎上の煙ばかりが遠く立ち上っていました。
清盛の弟の平教盛と経盛がこの煙によせて
都落ちの感慨や今後の事を思う歌を詠み別れを告げます。
教盛は
♪はかなしや主は雲井にわかるれば あとはけぶりと立ちのぼるかな
(はかないことよ、家を捨てて雲もはるかな旅路をたどれば、
家々を焼いた煙が空ゆく雲への彼方へと立ち上っていくことだなぁ)

続いて経盛は
♪ふるさとを焼け野の原とかへり見て 末もけぶりの波路をぞゆく
(住みなれた館を焼野の原としてその煙をふり返り見つつ 
いつ帰るとも知れぬ煙にとざされた海の旅路を行くことであるよ)

まことに故郷を煙のかなたに望みつつ、前途万里の
雲のかなたに赴く人々の心が推しはかられて哀れです。
平家都落ちの印象的なシーンです。

山崎
山城国の出入口にあたる山崎は、石清水八幡宮を遥拝する地であり、
なにより都との惜別の地でありました。
大和物語や落窪物語でも西国へ下る別れの場とされ、
藤原伊周(これちか)の左遷の別れも山崎と話題は豊富です。

覚一本『平家物語』では、平家一門の都落ちの行列が
京から山崎まで陸路を進んできたという状況が読みとれ、
経盛の歌に「けぶりの波路をぞゆく」とあり、
ここから船にのる予定であることが推測できます。
都落ちの一行、平貞能と出会う(鵜殿)  
平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
平家一門都落ち(太宰府天満宮)  
 『アクセス』
「関大明神社」大阪府島本町山崎1丁目 JR山崎駅下車5分

JR山崎駅前からすぐ南に離宮八幡宮があります。
そこから旧西国街道沿いに西方へ少し進むと社があります。
 『参考資料』
検証「日本史の舞台」東京堂出版 「史跡をたずねて」島本町教育委員会
 上田正昭編「探訪古代の道」法蔵館 「京都大事典」(府域編)淡交社  高橋昌明「平家の群像」岩波新書
 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
「第5巻・源平の盛衰」世界文化社 「大阪府の歴史散歩」(上)山川出版社
 「山崎・水無瀬」大山崎教育委員会

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
お話の中に地元が出てくると身近に感じますね。 (yukariko)
2013-02-15 21:42:21
西国街道は京と西国をつなぐ大動脈だったとは知っていますが、このような具体的な出来事の場面を読むと、
日常の場所が時空を超えた別世界のように感じられます。
平家一門といってもその母、妻子の縁故によって動きが違ったのですね。
行く末を考えたらつれて行くも地獄、残すも地獄と悩みは尽きなかった事でしょう。
まだ都が遠望できるこの辺りを通る頃がそれまでの栄華を思い、これからの行く先を思い迷って、一番辛かったことでしょう。
 
 
 
身近に感じますね! (sakura)
2013-02-16 10:51:27
山崎の歴史をほんの少しですがご紹介させていただきました。
山崎は淀川に対岸の橋本と結ぶ山崎橋が架けられていて、男山参拝の表参道として、
都の外港としてまた山陽道(現西国街道)の重要な駅として長い間栄えましたが、
11C末にこの参拝ルートが淀経由に改められた頃から少しずつ様子が変わり始めます。
近くを通られた時など、JR山崎駅の駐輪場やその付近に詳しい説明板がありますから、
またお読みくださいね。

これからも小松家は(全員ではありませんが)一門とは違った動きをします。
 
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