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都を落ちた平家一門は、太宰府を目ざしましたが、九州への入口に当たる
「母字(もじ)関」が反平氏によって閉じられ(『玉葉』八月十五日条)
一門が太宰府に辿りついたのは、都を落ちてから一ヶ月以上もたってからのことです。
太宰府に到着した一行は安樂寺(太宰府天満宮)に参詣し、望郷の思いを歌に詠みました。
肥後国の菊池高直は反乱を起こして平貞能に討伐され、都に連れてこられました。
それからまもなく平家は都落ちを決行し、高直は渋々太宰府まで
同行してきましたが、肥後国に入る大津山の関は警戒が厳しいので
自分が先に行って開いてくると言い残したまま国に帰り、その後は
いくら呼んでも戻ってきません。この時点で状況を把握し平家を見限ったようです。
かつては平家に忠誠を誓った九州、壱岐、対馬の武士らも「すぐに参ります。」と
連絡をよこしながら一向にやってきません。
つき従うのは岩戸(福岡県筑紫郡)の原田(大蔵)種直ばかりです。
その頃、朝廷では平氏によって安徳天皇を連れ去られたため、代わりの天皇を
立てようとしていました。以仁王の遺児、北陸宮を擁した木曽義仲は、
この宮を皇位継承者に推しましたが、義仲の野望は実現しませんでした。
法皇の命により、故高倉院の尊成(たかひら)親王が閑院殿で即位して
後鳥羽天皇となり、都と地方に二人の天皇が存在することになりました。
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平成27年の初詣は雪の太宰府天満宮でした。
年末に電車の切符を手配し日帰りで出かけましたが、予期せぬ 寒波に見舞われ、
雪が降りしきる中、太宰府駅から天満宮に向かいます。
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花崗岩製の明神型の大鳥居(鎌倉末期作)
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雪にもかかわらず、境内は初詣の人たちで賑わっています。
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本殿に向かって右側の飛梅は樹齢千年の白梅です。
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太宰府に左遷される時、道真がこよなく愛した邸内の梅の木に別れを告げ、
♪東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな と詠むと
一晩で京の都から大宰府に飛んできたという。
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どこの天満宮にも牛の像があります。
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菅原道真が承和12年(846)乙丑年の生まれであることや
本殿創建の地が牛との縁により定められたことなどに由来しています。
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江戸時代寺子屋の普及とともに、学問に秀でていた道真は、
学問の神としても信仰を集めるようになりました。
現在も受験生が多く参拝し賑わいます。
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カメラのレンズを拭きながら撮影しました。
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道真を祀る太宰府天満宮は、もともと道真の廟所安樂寺と一体化した
安樂寺天満宮でした。明治の神仏分離令で太宰府天満宮となり、
今日学問の神として多くの参拝者を集めています。
昌泰四年(901)左大臣藤原時平の讒言により、太宰権帥に左遷された
菅原道真は2年後に配所で失意のうちに亡くなりました。
『帝王編年記』『北野天神絵巻』によると、
道真の遺骸を筑紫国四堂のほとりに埋葬しようと、大宰府政庁の
北東の方向に進んでいたところ、牛が突然動かなくなり、
仕方なくその場所を墓所と定め、埋葬しました。
これが安楽寺(太宰府天満宮)の始まりとしています。
その後、道真配流に関与した貴族が不慮の死を遂げ、また都で落雷などの
天変地異が続き、これが道真の祟りと恐れられ、朝廷は鎮魂のために、
道真を本官右大臣に復して正二位を贈りました。その後も安樂寺には
贈位、贈官の勅使が派遣され正一位太政大臣にまで至りました。
その背景には道真の曾孫である太宰大弐菅原輔正が道真の託宣と称して
これを巧みに利用し、安楽寺の発展を図ったとされています。
『平家物語・巻8・四宮即位』によると、平家一門は辛い流浪の旅の
一時を安樂寺で過ごし、和歌や連歌を詠み神に奉納しています。
♪住み馴れし古き都の恋しさは 神も昔に思ひ知るらん 平重衡
(住み馴れた故郷である京の都を恋しく思う気持ちは、神となられた
菅原道真公も、昔のご経験からよくわかってくださることであろう。)と
再び都に戻れるよう祈願し、無実の罪で太宰府配流にあった道真と
義仲によって都を追われた平家一門の境遇が重ね合わされています。
『源平盛衰記』によると、この歌は平経正が詠んだとされ、
♪住みなれしふるの都の恋しさに 神も昔を忘れ給はじ
文言が少し異なります。
「天満天神」の神となる道真の伝承は『北野天神縁起』に描かれていますが、
延慶本『平家物語』にも、かなりの紙面を割いて
それに似た内容の物語を取りあげています。
平家の人々は都から太宰府に飛んできた梅はどれであろうかと、
口々に言いながら見まわっていると、どこからともなく
12、3歳の童子が現れ、ある梅の古木にて
♪これやこのこち吹く風にさそわれて あるじ尋ねし梅のたち枝は
(これがあの東風に誘われて飛んできたという梅の古木の若枝です。)と
詠んだかと思うと消え去ってしまいました。
これは天神様の影向(ようごう)に違いないと一同頭をたれ、
祈願成就の思いを強くしたとしています。
平家一門の安樂寺入りは、平氏と同寺の結びつきの深さによるものです。
安能は清盛の弟頼盛が太宰大弐(だいに)であった仁安二年(1167)に
安樂寺21代別当に任じられ、平氏の太宰府政権に深く入り込みました。
平氏の拠点であった摂津国福原に別荘をもち、後白河法皇が清盛の
福原の別荘に行幸の折、公卿たちと同席し、平家都落ちでも
安樂寺に安徳天皇はじめ、一門を迎え入れています。
安樂寺別当は道真の孫平忠(へいちゅう)が任じられて以後、
代々菅原氏から選ばれ、安能の父菅原在長と兄在茂は、
僧都に任ぜられ、京都法勝寺の執行も兼任しています。
平氏が壇ノ浦で滅亡すると、源頼朝は平氏に与した安樂寺別当
安能僧都の罷免を要求しています。(『吾妻鏡』文治二年六月十五日条)
一方、安能は証拠文書を揃え、仏神事興隆の功績を挙げて弁解しましたが、
この問題が解決しないうちに急死しました。
頼朝は九州の大社寺勢力であった安樂寺を抑圧し、自分の推薦する
別当を任命して鎌倉幕府の支配下に組み入れようとした。とされています。
平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)
後鳥羽天皇即位(閑院跡)
『アクセス』
「太宰府天満宮」 太宰府市宰府4-7-1
西鉄太宰府線「太宰府駅」下車徒歩約5分。
JR博多駅→徒歩3分博多バスターミナル→西鉄バス(約42分)西鉄太宰府駅
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 「福岡県百科事典」西日本新聞社、昭和57年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年 現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年
新定「源平盛衰記」(巻4・平家大宰府に着く附北野天神飛梅の事)新人物往来社、1994年
あの時に日帰りではるばると初詣に大宰府まで行かれたとは驚きです。
大宰府は個人旅行で電車で行ったり、その後はツアーで何度も訪ねていますがどの時も3月(梅見月)かそれ以降なので雪の大宰府は初めて見せて頂きました。
九州に行きながら落ち着きも出来ずまた戻った平氏一門が安樂寺でひと時を過ごし、連歌や和歌を奉納した…その歌は一門の来し方と行く末を思う時、ぐっと胸にきますね。
雪が強く降り始めたので心配しました。
太宰府天満宮に着いた時が一番激しく、
遅めの昼食をとる頃には止みました。
Yukarikoさまが参拝された頃が太宰府天満宮が1 年で一番美しい時期ですね。
また、道真公の、東風吹かば、匂いおこせよ、梅の花、主無しとて、春を忘るな。は、私の父の好きだった歌で、都を追われた平家の心情に重なるものが、あると思います。
清盛は日宋貿易を重視し神崎から櫛田神社を勧請、
博多の港などを整備しています。この貿易が政権の財源となったのですね。
博多を支配していた清盛に感謝し、博多どんたくが始まったといわれ、
博多祇園山笠とともに博多を代表するお祭です。
お父様がお好きだったという歌は、「源平盛衰記」にも記されています。
それによると「道真が故郷の空を見て
♪こち吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
と詠むと、都の道真の屋敷、紅梅殿の梅の枝が裂けて安楽寺に飛んできた。」
とあり通説と少し異なりますが、
いずれにしても道真の梅への思いの強さがうかがわれます。