平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




長寛二年(1164)八月、四十六歳で亡くなった崇徳上皇は、都からの検視の後、
白峯に送られ荼毘に付されました。

都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒れていましたが、
初代高松藩主松平頼重、五代頼恭(よりたか)、十一代頼聡(よりとし)らにより
修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど今日見るように整備されました。
ちなみに歴代天皇の御陵でこのような地方にあるのは、
淳仁帝の淡路陵、安徳帝の下関阿弥陀寺陵、白峯陵の三陵だけです。







御陵は長い石段の先にあります。

西行がもうでた時には、そこらあたりの民人の墓よりも深く草におおわれ、
柵がめぐらせてあるだけの御陵であったと、
『撰集抄(せんじゅうしょう)』『長門本平家物語』に記されていますが、
そんな時代はとうに過ぎ去り、石の
玉垣を巡らせた立派な御陵です。

前面の石灯籠は、源頼朝が為義、為朝のために奉納したものといわれています。
下段の灯篭には、宮内省奉献のもの二基、
高松藩主松平頼重、同頼恭奉献のものが二基あります。


崇徳院の墓所が白峯であることを記した最初の史料は西行の『山家集』です。
「白峯と申す所に御墓の侍りけるにまゐりて」という詞書をもつ
「よしや君昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせん 」
(かって都で就いておられた玉座でさえ、亡くなられた後では何になりましょうか。
どうか憂き世のことは早く忘れ、安らかに眠って下さい。)と詠んでいます。

これは崇徳院が昔、寝所を「玉の床」と詠んだ
「松が根の枕も何かあだならん 玉の床とて君の床か」
(松の根を枕とする旅寝も、何がはかないことがあろうか。美しく飾った
床であったとしても、この無常の世に常に変わらぬ床といえようか。)を踏まえ、
かつて院は「玉座」が永遠のものでないとお詠みになっていたではありませんか。
と西行は「よしや君…」と返し、悲嘆にくれます。

西行鎮魂絶唱の歌碑。

「瀬を早み岩にせかるゝ瀧川の われても末にあはんとぞ思ふ」

激しい恋の歌ですが、譲位後まもなくの作であることから、崇徳院の
皇統がいつか日の目を見ることを願って詠まれたようにも思われます。

「濱千鳥跡は都に通へども 身は松山に音(ね)をのみぞなく」
(私の筆跡は都に送っても、身は讃岐の松山で偲び泣くばかり。)
この歌は五部大乗経を送った時のものだといわれ、望郷の念にあふれています。

西行の白峯詣の話は『保元物語』にも見え、のちに謡曲『松山天狗』や『雨月物語』
『椿説(ちんせつ)弓張月』などの近世文学の題材となって広く知られました。

「仁安三年の秋は、葭(あし)の花散る難波を通り、須磨明石の浦を吹く風が
身に沁みつつも、旅寝の日を重ねかさねて讃岐の真尾坂(みおさか)の森かげに
暫く杖をとどめた。
この里近くに崇徳院の御陵があると聞き、もうでようと
十月の始めごろにその山に登った。松や柏は奥深く茂りあい、晴天の日でさえも、
絶えず小雨がそぼ降るようである。稚児ヶ嶽という険しい峰がうしろにそびえ立ち、
千尋の谷底から立ち昇る雲や霧は、目の前がはっきりと見えなくなるような
不安な気持ちにさせる。木立のほんのわずか空いている所に、高く盛り土がしてあり、
その上に石を三段に積み重ねたのが、うばらかずらに埋もれてうら悲しい。」と、
西行が白峯御陵にもうでたところから上田秋成の『雨月物語』白峯は展開します。

西行の前に上皇の霊が現れ、わが子重仁親王が即位できなかったことを盛んに訴え、
保元の乱の正当性を主張します。それを批判する西行との間に壮絶な議論が交わされたあと、
上皇は魔道に落ちたあさましい姿を現し、現世では晴らせなかった仇敵への怨念と
復讐の念を語りますが、西行が安らかに鎮まってほしいと詠んだ
「よしや君…」の歌に、崇徳上皇の霊も怒りの表情を和らげやがて姿を消します。

『雨月物語・白峯』が描きだした崇徳院の霊のさまは、「朱をそそいだお顔に、
櫛削けずらぬ髪が膝まで乱れ、白まなこを吊り上げ、熱い息を苦し気に
ついておられる。御衣は柿色の古くすすけたのを召して手足の爪は獣のように
長く伸び、さながら魔王の形相、あさましくも恐ろしい」というものでした。
ただ江戸時代の上田秋成は、歴史上の敗者である崇徳上皇の怨霊伝説を
小説風に書いたのであって、本当の上皇の姿を伝えるものではありません。

滝沢馬琴は『保元物語』の為朝を主人公にした『椿説弓張月』を著し、保元の乱の際、
崇徳院方に馳せ参じ、奮戦した
為朝を崇徳院の墓前で自害させています。

源為朝(1139~70)は源為義の八男で、鎮西八郎為朝ともよばれ、
身の丈七尺ほど(210cm)で、弓を引く左手が右手よりも4寸(12cm)ほど長く、
生まれながらの弓の名手でした。武勇伝の多い為朝は幼少より勇猛な武者で、
もてあつかいに困った父の為義は、為朝が13歳の時に九州の豊後国に追いやると、
為朝は自ら「鎮西総追捕使」と称して九州地方の武士を傘下にいれようと奔走し、
三年の間に菊池氏原田氏などの城を破り、九州を平らげてしまいました。
しかしこうした行為は受け入れられず、為朝に出頭の宣旨が出されましたが、
応じなかったため、父為義が検非違使の職を解官されてしまいました。

そこで為朝は弁明のため上洛したところを保元の乱に巻き込まれ、
父とともに崇徳上皇、藤原頼長が籠る白河北殿に参陣しました。
為朝は後白河天皇方の高松殿の夜討ちを提言しますが、
頼長に「正々堂々と戦うべきである。」と一言のもとに退けられます。
天皇方では為朝の兄義朝の夜襲策が取りあげられ、上皇方は機先を制せられた
形となりましたが、天皇方の数をたのんだ軍勢が為朝の活躍に手こずった様子が
『保元物語』に記されています。為朝の強弓に手を焼いた義朝は火を放ち
白河北殿は炎上し、合戦はあっけなく幕を閉じました。
為朝は東山の如意山まで上皇や父らとともに逃げ、そこから一行と離れて
近江国に隠れ住んでいましたが重病にかかり、湯屋で療養していたところ、
不意をつかれて生け捕りにされ京に送られました。

死罪になるところをこのような勇士を殺すのは惜しいとされ、二度と弓が
引けないように左右の肘の筋を切られて伊豆大島へ流罪となりました。
しばらくして肘の傷が癒えると、島の代官の婿となって伊豆七島を従えて
猛威を振るいました。困った伊豆介狩野茂光は後白河院に訴え、
動員された武士たち五百余騎が軍船に乗り込んで大島へ押し寄せました。
沖のかなたに軍船の群れを見た為朝は、もはやこれまでと自害し一生を終えました。
こわごわ上陸した官軍は、まるで生きているような為朝の姿に、
誰一人近寄ることができません。ここに加藤次景廉(かとうじかげかど)が
長刀をもって後ろより狙いを定めて為朝の首を討ち落としました。

為朝に責められた原田氏はのちに平氏に従い、九州平家軍の中心的存在となり、
原田種直は平家一門都落ちに際し、安徳天皇をその城に迎えています。
為朝の首を討った加藤次景廉は、これより十年後、頼朝挙兵の際、頼朝から長刀を賜り、
伊豆国目代山木兼隆の首級をあげ、緒戦を飾ります。奥州合戦でも奮戦し、
恩賞として頼朝から美濃国遠山荘の地頭職を与えられ、子孫は遠山姓を名乗り、
江戸の名奉行として知られる遠山金四郎景元はその子孫にあたります。

『椿説弓張月』は、「為朝は大島で死んだのではなく、追討軍の手を脱して
琉球に上陸したとし、その頃、琉球では怪僧曚雲(もううん)が国政をほしいままにして
民衆を苦しめていたので、
為朝は曚雲らを成敗し、わが子舜天丸(しゅんてんまる)が
琉球王になったのを見届けてから琉球を去り、讃岐白峯の崇徳院の墓前で切腹しました。後世、
この話を聞いた人々は為朝が崇徳院の導きで生きながら神となって日本へ帰り白峯陵の前で、
遅ればせながら殉死したに違いないとその心ざしの深さに感動した。」と記しています。
九州・伊豆諸島・琉球・四国と物語が展開する途方もなくスケールの大きい為朝英雄譚です。

「讃岐院眷属をして為朝をすくう図」歌川国芳画。

『椿説弓張月』中の一場面を描いたものです。
清盛を討つため、九州から船出し嵐に襲われた源為朝父子は、讃岐院(崇徳院)の眷属である
烏天狗と為朝のために忠死した家臣の魂が乗り移った大鰐鮫(わにざめ)に救われます。

室町時代作といわれる『松山天狗』は西行が讃岐国松山の崇徳院の墓を詣でた夜、
山風が吹き、雷鳴がとどろく中、天狗どもが飛翔し、魔道に徹し怨念の権化となった
崇徳院のおどろおどろしたすさまじいありさまを見事にうたいあげています。
『アクセス』
「白峯陵」坂出市青海町 坂出駅から琴参バス王越線「青海」下車 徒歩約1時間5
または坂出駅から琴参バス王越線「高屋」下車2.5キロ 徒歩約1時間
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 
 別冊太陽「西行 捨てて生きる」平凡社、2010
 日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年 
「源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 平岩弓枝「私家本
椿説弓張月」新潮社、2014
 
上田秋成作・円地文子訳「日本古典文庫20 雨月物語」河出書房新社、昭和63
 白洲正子「西行」新潮文庫、昭和63年 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 

 


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