平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



北九州市門司区にある柳の御所を訪ねる途中、
立ちよったお蕎麦屋さんから「豊前大里宿」の絵地図をいただきました。
その絵図に「安徳天皇上陸地」と記されているのを見つけ、
石碑でもたっていないかと急遽予定を変更し海岸に向かいました。

現門司区大里(だいり)は、大宰府を追われた平家一門が柳の御所を
設けたことにより内裏と呼ばれていました。
江戸時代に参勤交代が行われるようになると、内裏は下関渡海の宿場町として、
九州の諸大名をはじめ人々の往来で栄えました。その後、内裏浦で唐船の
抜荷漂流が頻発し、朝廷から異国賊船平定の命を受けたため、
時の藩主が内裏の海に血を流すのは畏れ多いとして大里に改めました。

下は海岸縁を拡大した図です。

絵図を頼りに安徳天皇上陸地の大里第一船だまりへ向かいます。

海岸沿いの国道199号線を進むと、門司港レトロ地区にある
船だまりの一角に「安徳天皇上陸地」の説明板がありました。

「明治天皇記念之松」
明治三十五年(1902)、明治天皇は熊本での
陸軍大演習視察のため、下関から大里に上陸し、梅木小路を経て
鉄路熊本へ出発しました。この碑は、明治天皇の上陸を記念して、
地元の人々が大正三年(1914)に松の植樹と記念碑を建立したものです。
碑は、長い間大里漁港の防波堤にありましたが、
平成十八年三月、ゆかりの場所近くに移設されました。

また、寿永三年(1183)木曽義仲に都を追われた安徳天皇と平家一門が、
この地より上陸され柳の御所に一時滞在されました。

「薩摩守忠度卿の歌」
都なる九重の内恋しくば 柳の御所に立ちよりてみよ  北九州市(説明板より)



大里海岸緑地より平知盛が砦を構えた彦島遠望。

北陸合戦で平氏軍に大勝利した木曽義仲が逃げる平氏を追って、
都をめざして近づいてきました。平氏は義仲との倶利伽羅・篠原合戦などで
壊滅的な打撃を受け、いったん西国に落ちて軍勢を立て直すことにしました。
安徳天皇・後白河院とともに都を落ちるつもりでしたが、院はいち早く察知し、
側近を伴って延暦寺に入りました。安徳天皇・後白河院それに三種の神器さえあれば、
都落ちしたとはいえ、平家は官軍として認められます。
院を逃がしたのは大失敗でした。

寿永二年(1183)七月二十五日朝、平氏は一門の六波羅・八条邸を焼き払い、
三種の神器を携え安徳天皇を奉じて都をあとにしました。
福原に立ちより一夜を過ごした後、九州に向かいましたが、反平氏勢力が門司を
封鎖していたため、備前国児島にしばらく留まり、ようやく八月末に九州に到着しました。

頼朝の挙兵以来、各地に反平家の動きが広がり、九州でも平家の没落を察してか、
肥後国菊池隆直が平家に叛き大宰府を攻めました。隆直をはじめとする
九州の反乱鎮圧のために、平氏重代の家人平貞能(さだよし)の軍勢が派遣され、
貞能は二年かかりやっと九州を平定し、都落ち直前に京に帰ってきました。
貞能は都での決戦を主張しましたが、大将の宗盛は一門の都落ちを命じました。
西国の情勢を実際に見てきた貞能は、九州を平定したといっても、
この時期、なお不安定であり勢力回復が困難であることをよく知っていたのです。
貞能に降伏した菊池隆直は貞能に連れられて上洛した時、たまたま一門の
都落ちに遭遇し、九州まで一行の案内役を務めることになりました。

九州は平家の地盤と考えられていますが、平家が大宰府に進出する以前、
頼朝の叔父鎮西八郎為朝は九州に渡り、若くして九州を実力で制圧し、朝廷の
任命もないまま、鎮西総追捕使(ついぶし)を名のり六年になったとしています。
その後、為朝は保元の乱で敗れ伊豆大島に流罪となりましたが、
九州は短い間とはいえ、源氏にもゆかりのある地でした。

平家一門都落ち関戸院(関大明神社)   
都落ちの一行、平貞能と出会う(鵜殿) 
平家一門都落ち(太宰府天満宮)   柳の御所・御所神社  
『アクセス』
第一船だまり」JR門司駅から徒歩約5分 
なお未見ですが、「明治天皇上陸記念碑」は、レストラン「ラ・メール」傍にあります。

『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
 森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 「福岡県の地名」平凡社、2004年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 

 



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