コメント
 
 
 
忠度の意地ですね。 (自閑)
2016-09-22 17:18:29
sakura様
都落ちの際、九州に拠点を置いたのは、不思議です。戦場を摂津に想定したとしても、海軍力の無い源氏にそこまで攻め込まれると考えるとは思えないです。

忠度の
柳の御所に立ちよりてみよ
は、平家の意地、こんな鄙地まで来た人々への鼓舞ですね。

地図を頂いたのは、縁です。sakura様にご紹介頂きたい平家の思いがそうさせたと思います。

恋しきは玄海の海秋の風
 
 
 
柳の御所 (揚羽蝶)
2016-09-22 18:55:00
 木曽義仲に、都を追われた平家は、苦しい海上生活を
余儀なくされます。
九州も永住の地ではなかったですね。
一時でも柳の御所に安住できたのは、有り難かったと思います。
 
 
 
柳の御所というのは門司港側にあったのですね。 (yukariko)
2016-09-22 21:43:24
壇ノ浦や赤間神宮が下関側にあるので「安徳天皇上陸地」の説明板のある第一船溜まりが地図でどこになるのかと眺めていましたが、現門司区大里は向い側でした(笑)
息子と写真を撮るために門司と下関を二回訪れ車で走り回ったのですが、記憶に残っているのは火の山と壇ノ浦、みもすそ川と赤間神宮、和布刈公園、門司港一帯ですね。当然上陸されていたのですが、柳の御所の事は全く知りませんでした。
 
 
 
自閑さま (sakura)
2016-09-23 13:26:58
第一船だまりの目の前は玄界灘です。
彦島の写真を海岸から撮影しましたが、曇っていたのでよくありません。

都落ちの際、九州に拠点を置こうとしたのは、それほど唐突なことではなかったのです。
といいますのは、平治の乱の際清盛も一時、
九州へ落ちることを考えていましたから。

平家を追って近江に迫った義仲は、その右筆覚明が
比叡山の僧兵に手紙を送って比叡山を味方につけてしまいました。
平家は都での合戦を覚悟しましたが、それには比叡山の協力が
必要だったのですが、義仲に先手を打たれてしまいました。

平家が北陸合戦で大敗北したと知ると、都周辺の源氏は
一斉に蜂起し、まさに四面楚歌の状況です。

都落ちの際、後白河法皇を伴うことができればよかったのですが、
法皇は早くから北面の武士を宗盛の傍につけ、その動静をうかがわせていたのです。
法皇が比叡山に脱出したことは、九条兼実でさえ翌朝4時には知っていたのに、
宗盛が知ったのはその4時間後のことでした。

都を放棄したばかりか、福原の館も焼き払い、平氏が目ざしたのは大宰府でした。
大宰府へ赴いてそこに内裏を造り、九州の武士を束ねて
都に攻めのぼろうと考えていたと思われます。
 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2016-09-23 13:32:32
平氏は都を出てから屋島に落ち着くまでの多くの日々を
海上に漂う生活を余儀なくされます。

都落ち以来、一日も早く都に帰らせたまえと祈り続けた日々であったと思われます。

 
 
 
yukarikoさま (sakura)
2016-09-23 16:23:36
二度もたずねてくださったのですね。
ありがとうございます。

下関には平家の滅亡に関する伝承が多く残されていますね。
赤間神宮や壇ノ浦古戦場などの観光ツァーも人気があります。

赤れんが館などの門司港レトロ地区には、観光客もこられ
人気のスポットのようですが、柳の御所はあまり知られていないようです。
 
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