コメント
 
 
 
清盛は愛憎共に深い人だったのでしょう。 (yukariko)
2012-09-20 16:13:18
津山の桜の帰りに吉備一宮を参拝しようとして、吉備津神社と吉備津彦神社を間違え、こうなりゃついで!と一帯を地図を頼りに走り回ったので、地図を見ると懐かしい(笑)

といっても歴史は全く知らず「歌枕の吉備の中山」や「吉備津の釜」という言葉を知っていただけですが(笑)

権大納言まで上り、平家一門と姻戚関係を持ってわが世の春だったはずの藤原成親がこんな田舎!で惨殺された…手を下したのも清盛の腹心…清盛の怒りの深さが分かります。
池の禅尼の嘆願で頼朝を、重盛の頼みを聞き、常盤の色香と母を思う孝行にもほだされ義経兄弟を仏門に入れたり…結構人間臭い、感情豊かな人だったからこそ、裏切られていたと思えば、悪逆非道な事もやってしまうのかも。

源氏に共通するDNAは近親憎悪、親殺しとか新聞のコラムで読みましたが、一般庶民としては源氏の心理よりは悪行でも清盛の方が気持ちが分かりますね。


 
 
 
そうですね! (sakura)
2012-09-21 11:03:50
権力・地位を手にした清盛は次第に暴君化していき、敵対する勢力には残酷な仕打ちをしていますが、
家族や親平氏に対しては、普通の人と変わらない優しい顔を見せ、気配りも忘れていません。
いくつかの微笑ましい清盛のエピソードが伝えられています
吉備津神社と吉備津彦神社の間は電車で一駅ありますが、駅前にはレンタサイクルもありますし、古代史がお好きな方でしょうか?吉備路を地図片手に歩いている人も多く見かけます。吉備津神社の「吉備津の釜」は雨月物語の題材にもなり有名ですね。

 
 
 
江戸時代 牛窓 近辺 藤原氏 (先祖が分からない人)
2013-01-31 10:13:23
江戸時代
子どもに恵まれなくて 7代に渡って 養子をそこそこの家系からもらった。海運業を盛んにやっていたらしいが、明治29年の台風?シケ?宮崎沖で竹を運搬中にひいじさんと一族、4人のおじさんが行方不明になたらしい。そのあとは、ご多分に洩れず、田畑を処分しながら困窮の生活となり、没落し、私の祖父は大阪に丁稚奉公に出たそうです。

誰か何かご存知であれば、教えてください。
 
 
 
布留大八郎 (藤沢町大籠)
2016-07-12 06:59:53
当地に1600年前後、千松兄弟(布留大八郎・小八郎)を招聘し、たたら製鉄を教わったという歴史があります。吉備中山有木の別所から来たということになっております。布留大八郎・小八郎兄弟についてご存知の方、教えてください。
 
 
 
滅んだ者への哀感 (ren)
2016-11-11 05:23:14
 先日「奧の細道」「平家物語」の視写を終え、それぞれのゆかりの地をめぐって行きたいと考えています。(ブログ記事を参考にさせていただきます。)それぞれ全編を通して描かれる敗者への哀感に深く心を動かされます。特に「平家物語」は、人物の家族の心情も伝えていて、胸に迫るものがあります。今、このことを歴代の日本人と共有できたような満足感もあります。虚構も踏まえて800年間私たちに伝えていることを少しずつ受け止めたいと思っています。
 
 
 
renさま、ご訪問ありがとうございます。 (sakura)
2016-11-11 16:23:49
「奧の細道」「平家物語」の視写を終えられたとのこと、大変な作業でしたね。
かなりのお時間を費やされたことと思います。
視写という気の遠くなるようなご努力の結果、古文の表現法を
しっかり身につけられたことと推察しております。
文語表現の独特な美しさは、現代語訳では表せません。

私の時代には、全文書き写すということはしませんでしたが、
先生から原文を何度も読めば、自ずと意味が分かるといわれ、
何度も何度も声に出して読んだのを思い出します。
また和歌などは、雑記帳に書き写して覚えました。

芭蕉は「平家物語」のファンだったとかで、
「平家物語」と「奥の細道」の史跡は、重なるところがありますね。

私がこのブログを始めた時には、物語の有名な章段を拾い読みした程度で、
次々に登場する人物が整理できず、系図を手元において読み進めました。

「平家物語」の中で、印象的な部分は沢山あり数え切れません。
東国の手下もろくに持たない無名のつわものたちが功名目ざして、
必死に戦った宇治川合戦や一の谷の戦い。
物語には、人間の強さ、弱さ、醜さが余すことなく描かれています。
 
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