平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



徳大寺実定(1139~1191)は藤原北家閑院流、右大臣
公能(きみよし)の長男で、二代の后といわれた多子の同母兄です。
 当代きっての文化人で、今様朗詠の名手・詩・和歌に優れ、
勅撰集に73首選ばれています。
現在の竜安寺辺にあった山荘や徳大寺を公成・公実を経て、
祖父実能が引き継いだため、
 実能の家系は徳大寺家とよばれるようになりました。
 


閑院流藤原氏は、
 閑院太政大臣・公季(きみすえ)から出た公家の家です。
 公季の孫公成の娘茂子が白河天皇の母、公実の妹苡子(しげこ)が
鳥羽天皇の母となり
外戚として摂関家に迫る勢いとなり、
公実の息子たちはそれぞれ一家をたてました。

公実の娘璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の後宮に入り
崇徳・後白河両天皇を生み
 その後も近衛、二条両天皇の皇后多子、
後白河天皇の后・成子、皇后・忻子、女御・琮子のような
歴代天皇の妻や天皇の母を輩出した家柄です。

後白河院の皇子以仁王は多子のまたいとこにあたり、多子の近衛河原の
大宮御所で密かに元服したことが、
『巻4・源氏揃』に見え、
その謀反の背後には、
徳大寺家の力もあったと考えられています。





『巻2・徳大寺厳島詣での事』は、徳大寺実定(さねさだ)が主人公です。

1177年、左大将人事の候補に実定の名が挙がり、
新大納言藤原成親もそれを望みますが
結局、
清盛の長男重盛が左大将、次男宗盛が右大将と
清盛の子息たちが左右大将を占めました。

大将を望んでいた実定は、落胆のあまり大納言を辞して
籠居することになりますが、
そこへ訪ねてきた
家来藤蔵人(とうのくろうど)重兼の
勧めに従い、
清盛が崇拝する厳島に7日参籠し、
 帰りには内侍たちを都まで連れてきて歓待しました。

 大将祈願のために実定が厳島に参詣したことを聞いた清盛は、
 感激し早速重盛に左大将を辞めさせ実定を左大将にしました。
 「あはれ、めでたかりけるはかりごとかな。新大納言成親は
 このような賢明なはかりごとがおありにならず、
鹿ケ谷で平家打倒の談合をして
殺害されたのは
情けないことであった。」と作者は結んでいます。
『参考資料』
「平安時代史事典」角川書店  「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
新潮日本古典集成 「平家物語」(上)新潮社 
日下力・鈴木彰・出口久徳「平家物語を知る事典」東京堂出版

 

 

 

 
 




コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
素晴らしい外戚ぶりですね! (yukariko)
2008-12-04 23:23:51
后や女御を輩出し、皇統を継がれた帝の生母を何人も擁している一族の長男を平家も無視は出来にくいですね。
同じ一族でも内輪では陰湿な争いがあったに違いないと思いますが、こうして系図だけ拝見すると『凄い血統!』

希望する大将の職も息子から取り上げて与え直す恩を世間に示すのも平氏の懐の広さを示すいい機会ですし、宮中運営上も羽振りの良い徳大寺家を取り込んで仲良くする方が得策だったでしょう。

当代きっての文化人で、今様朗詠の名手・詩・和歌に優れた人気者がしおらしくも平氏が信仰している厳島に大将祈願で参籠したと聞けば、『殊勝な心がけ!あっぱれ』となるのではないかという家来の案を実行した実定も家柄を声高に誇らない賢く柔軟な考えの持ち主ですね。

その代り新しく都となった福原にも渋る公卿達に先駆け、恩を受けた彼としては、率先して付いて行かないといけなかったでしょうけれど…。
 
 
 
おっしゃるように徳大寺家は名家です! (sakura)
2008-12-05 14:48:54
もっと家柄の良いのが摂関家です。
多子は徳大寺・右大臣藤原公能の娘ですが、幼い頃さらに家柄のいい
摂関家(御堂流・道長の子孫)頼長の養女となり、近衛天皇に入内、
その後ニ条天皇の后となりますが、近衛天皇の子にも二条天皇の子にも恵まれませんでした。

少し時代を遡ると藤原道長の時代は、外戚である摂関家が政治を運営していました。
この御堂流と外戚関係にない後三条天皇が出現し、白河天皇の院政の開始。
(この辺は以前書いたと思います。)
白河、鳥羽、崇徳、後白河の外戚となったのは閑院流でしたし、近衛天皇の生母は藤原氏の善勝流の美福門院でした。
鳥羽天皇即位にあたり、天皇生母の兄藤原公実が摂政への就任を希望するが、
受け入れられず天皇家と外戚関係がなくとも摂関家(御堂流)の子孫が摂関を独占する家になりました。

後白河の後宮には閑院流の成子、忻子、子が入りますが、閑院流の娘たちは全員美人でおとなしい性格で、後宮は丸くおさまっていたようです。
待賢門院璋子の娘・上西門院の女房平滋子(建春門院)が高倉天皇を生んだことから、流れが変わり様々な問題が起きてきます。

母・美福門院が閑院流の待賢門院璋子と対立していた八条院ですが、
反平家という点では閑院流と同じ。
以仁王は閑院流がとりしきって元服、挙兵の背景には八条院の財力がありました。
この辺もお分かりいただけると思います。

清盛は感激しやすい性格だったようで、実定の家来がその性格を見抜いて主に知恵を授けました。
実定は平家の世には平家に逆らわず、頼朝の時代になると頼朝と手を組み、
この家系は明治まで繁栄しました。
 
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