![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/0c/9e64c27c14b8acae7ec1acf0db38b149.jpg)
鹿ヶ谷の平家討伐の陰謀は多田行綱の密告によって発覚し、
関係者は次々に捕えられました。この謀議に加わった平康頼は、
俊寛と藤原成経とともに鬼界ヶ島へ配流となります。
瀬戸内を船で下る途中、しけにあって周防(山口県東部)の
室積の浦に泊まり、康頼は近くの小寺で
住職の活堂和尚によって仏道に入りました。
昔この寺は、入道寺とか性照(しょうしょう)庵と呼ばれていましたが、
江戸時代に海音山潮松庵と改められ、その後、
明治の廃仏毀釈で普賢寺に合併され、廃寺となっています。
現在、峨眉(がび)山の麓、峨眉山普賢寺(臨済宗)の
境内に平康頼の歌碑が建っています。
普賢寺は播磨国の書写山円教寺の性空(しょうくう)上人開基とされ、
室積湾を見下ろす山中にありましたが、室町時代後期に
現在地に移され天台宗から臨済宗にかわったという。
本尊普賢菩薩には、性空が室積の海から引き揚げたという伝承があり、
古くから「海の守護仏」として広く信仰を集めてきました。
江戸時代には、毛利家の祈願所として寺領9石5斗、俸禄(ほうろく)米
5石を支給され、藩直営の普請寺として格式の高い寺でした。
毎年、性空上人の命日にちなむ5月14・15日の普賢祭には、
盛大な露店市がたち、多くの人出で賑わいます。
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JR山陽本線光駅
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漁民や航海者の信仰が篤く、かつては船での参拝が多く見られ、
参道は海に向かって東面しています。
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参道にたつ常夜灯
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波静かな室積の浦
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仁王門をくぐると、平康頼と性空上人の石碑が五基並んでいます。
平康頼の碑と歌碑(碑に刻まれた文字は風化してしまって読みとれません)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/68/974247648c8568e5a4d1f05fe905c85c.jpg)
萩藩主毛利吉就(よしなり)が性空上人の事績を偲び墓石と石碑を建立しました。
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歌碑には「平判官康頼於此地 出家法名性照
終にかく 背きはてけむ世の中を とく捨ざりしことぞかなしき」と刻まれています。
(平家物語の中では、最後の一節「かなしき」が「くやしき」となっています。)
性空上人の墓と平康頼の歌碑背面
康頼の歌碑は潮松庵に建っていましたが、
潮松庵が廃寺になると、現在地に移されました。
この碑はいつしか3つに折れてしまったので、津村精一氏が発起人となり
大正13年(1924)に再建されました。
歌碑の背面にその再建由来記が刻まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/39/056704b4cdb5caf526cb7b61af950734.jpg)
折れた歌碑が碑の後側に置かれています。
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ボランティアガイドさんに潮松庵は、普賢寺墓地の
井戸辺にあったと教えていただきました。
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墓所はバス道を隔てて、境内の向かい側にあります。
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潮松庵があったという井戸の辺
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周防の室積で出家し、法名性照(しょうしょう)と改めた康頼は、
♪つひにかくそむきはてける世の中を とく捨てざりしことぞくやしき
(こうして結局出家してしまう身を、なぜもっと早く
出家しなかったのだろうかと悔やまれることだ。)と出家して
安心が得られた思いを詠んでいます。
(『平家物語・巻2・三人鬼界ヶ島に流さるる事』)
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本尊普賢菩薩が安置されている普賢堂
時間がなくて拝観できませんでしたが、普賢堂の南方に本堂があり、
雪舟作と伝えられる枯山水の庭園(県指定名勝)があります。
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さて平氏打倒の謀議に加わったのは、藤原成親をはじめとし、
西光、近江中将入道蓮浄、法勝寺の俊寛、山城守基兼、
式部大輔(しきぶのたいふ)雅綱(まさつな)、平判官康頼、
新平判官資行(すけゆき)などの顔ぶれでした。
首謀者でもない康頼が遠く南海の孤島・鬼界ヶ島(きかいがしま)へ
流罪となったのは、『源平盛衰記・巻7』によると、
次のような理由だったとしています。
鹿ケ谷の山荘に故信西の息静憲法印をお供に後白河法皇が訪れた時、
宴の席で静憲は平氏討伐の謀を初めて聞き、「用心なさいまし、
このことが漏れたら大事件になります。」と騒いだので、
藤原成親は顔色を変え、思わず立ち上がった拍子に、
酒を入れる瓶子(へいじ)を袖に引っかけて倒してしまいました。
法皇が「何としたことか。」と尋ねると、成親は
「事の始めに平氏(瓶子)が倒れました。」と答えたところ、宴会は
大いに盛り上がり、法皇は悦にいって「猿楽を舞え」と命じます。
猿楽とは物真似などの滑稽な芸のことです。
すると平康頼が法皇に近づき、「この頃、あまりに瓶子(平氏)が
多いので酔ってしまいました。」とおどけ、俊寛がすかさず
その言葉を受けて、「さてその瓶子(平氏)をどうしましょうか。」と
煽り立てます。今度は西光法師が「ならば瓶子(平氏)の首を
とるのがいいでしょう。」と言って瓶子(平氏)の首を折り取ったという。
康頼は折れた首を持って大路を渡すように広縁を三度廻り、
「獄門の栴檀(せんだん)の木に懸ける」といいながら、
それを大床の柱の烏帽子掛けに結びつけました。
清盛はこれを聞いて従犯にすぎない康頼を重く処罰したという。
芸達者な後白河法皇の側近たちが平氏を馬鹿にしている様子や
芸能狂いといわれた法皇の一面がよく描かれている有名な場面です。
なお、『平家物語』は周防の室積で出家したと語っていますが、
『源平盛衰記・巻7』は、康頼出家の地を摂津小馬林としています。
その一節をご紹介します。
「康頼は都を出て配所に向かいましたが、
小馬林(こまのはやし)を通る時、こう読みました。
♪津国や こまの林を きてみれば 古は いまだ変わらざりけり
(摂津の国の小馬の林まで来てみれば、昔の面影が今も変わらずに残っている)
やがてここで出家し、法名を性照といいました。」
小馬林とは現在の神戸市長田区駒ヶ林で、寿永の頃までは
小島を形づくっていたため、小馬島といいました。
一ノ谷の戦いで敗れた平氏の多くが沖に待機する船へと逃れたところです。
駒ヶ林めざして落ちて行く途中、岡部六弥太忠澄の郎党に討たれた
平忠度の腕塚が神戸市長田区駒ヶ林にあります。
『アクセス』
「普賢寺」山口県光市室積八丁目6-1 TEL: 0833-79-1223
JR光駅からバスで約30分(室積公園口行き)「室積公園口」下車すぐ
バスの本数が少ないのでご注意ください。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
「完訳源平盛衰記(1)(2)」勉誠出版、2005年
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
神戸史談会編「源平と神戸福原遷都から800年」神戸新聞出版センター、昭和56年
だから出家して世を捨てて、安らかになった心持ちを読んだのでしょうね。
後に許されて京に上っても世捨て人のままに亡くなったのはもうこりごりだったのではないでしょうか?
康頼の場合は少し違うような気がします。
物語の中で康頼は、藤原成経とともに熊野信仰に篤い人物として描かれ、
配流にあたって紫野に隠棲する母親にも信仰を勧めています。
赦されて島から戻ると、東山双林寺にあった自分の山荘に落ち着き
和歌と説話をおりまぜて仏の教えを説く『宝物集』を著しています。
のち頼朝に阿波国麻植保(おえほ)の保司(ほじ)に任命されて赴任すると、
20年ほどの間に玉林寺や熊野神社、補陀洛寺などを建立しています。
お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。