ねむたいむ

演劇・朗読 ゆるやかで懐かしい時間 

数字の不思議

2012-07-28 | Weblog
昔々のこと。中学一年生の夏休みの日記に、私は数字に関する二つの「発見」を書いた。

① 9の一桁の掛け算の答えの数字をばらして足すと必ず9になる。

 9×1= 9(9+0=9)
 9×2=18(1+8=9)
 9×3=27(2+7=9)
 9×4=36(3+6=9)
   以下、省略

② 1~10までの10個の数字を足すと55だけど、答えの55をばらして足すとやっぱり10
  になる。
 
 1+2+3+4+5+6+7+8+9+10=55(5+5=10)

そして「仲良しの数字発見」と見出しを付けた。
その時の担任の中尾先生が、夏休み明けに提出した日記のその日のところに、大きく赤で「仲良しGOOD!」と書いてくれたのがとてもうれしかった。

中尾先生は、大学を卒業したての男の先生で、宿題を忘れた生徒の頭のてっぺんに、罰としてゲンコツを食らわすのが決まりだった。ガツンとすごく大きな音がするので、恐怖だったのだけど、ゲンコツを食らった生徒はちっとも痛くなかったというのだ。いつの日からか、先生のゲンコツは名物になって、それを受けたいがために宿題を忘れる生徒まで出てきた。私はゲンコツなんて野蛮だと思い、絶対に宿題は忘れないようにしようと決心していた。
私は友達がなく、休み時間はいつも一人で本を読んでいた。
中尾先生はそれを見て「本好きか?先生も本好きだ」と声をかけてきた。みんなと遊ばなくちゃだめだとは言わなかった。
ある日、先生は自分の家に私を呼んで、自分の本棚に案内してくれた。
「好きな本があるか?」と聞く。
理数系の本が多かったので好きなのはなさそうだなあと思っていると、先生が一冊の本を取り出して「これは僕が学生の頃好きだった本なんだ」と言う。緑色の表紙の、掌にすっぽりと収まる小さな古びた本だった。ページをめくると、様々な植物が1ページにつき2つづつ紹介されている。図鑑らしくないシックな絵で、なんというかとても芸術的な本だ。
私は「すごくきれい」と言ったと思う。先生はうれしそうに「そうだろう」と言って、その日の帰り、その本を私にくれた。それは牧野富太郎という人の「学生版原色植物図鑑」で、今も大切に持っている。
知らない植物の名前を聞いたらまずこの本を開く。
理数系に対する認識が新たになったと同時に、先生というものを初めて好きになったきっかけをくれた一冊なのだ。

何年か前に、小川洋子の「博士の愛した数式」という本がベストセラーになった。
これは、数字に関するとても美しい物語だ。
私は、残酷だけど繊細で静謐で不思議な世界感に溢れた小川ワールドが大好きなのだけど、
この「博士が愛した数式」はいつもの小川ワールドからはちょっと外れている。
外れているから、たくさんの人に受け入れられた本になったのかもしれない。
一言で言うと「80分しか記憶を持たない数学者とその家政婦さんとその子供の数式が取り持つ愛の物語」ということになるのだろうけど、一瞬の積み重ねで心を重ねていく三人の姿がとても感動的で、いつもの小川作品ではないにしても素晴らしい作品であることにはちがいない。
中に、博士の愛用の時計のナンバーと家政婦さんの誕生日が友愛の契りを結んだ特別な数であることがわかる場面がある。その特別な数字は、数学用語で友愛数というのだそうだ。
私の中学一年の時の数字の発見は幼いものだったのだろうけど、私はこの場面でそのことをとても懐かしく思い出してしまった。

数字って、1,2,3と並べたらただの数だけど、それが自分にとって特別な意味を持つ数字であるとわかると、とても愛しいものに変わるような気がする。





京都芸術センターにて、「ダンスを語る」を聴く

2012-07-22 | Weblog
京都芸術センターは、阪急烏丸駅から歩いて5分。廃校になった古い小学校を改修して作られたアートスペースだ。
美術や演劇の発表の場でもあり、さまざまな制作や稽古などにも利用されている。
こういう古い建物を利用したアートスペースでは設備などが老朽化したままだったりするのだけど、ここはとても清潔できれい。
アーチ型の窓、タイル張りの水飲み場、木製の階段、廊下、窓枠、扉。
どれもが古き時代の良いところをそのままに残し、かつ洗練されている。

土曜日、その京都芸術センターで、「ダンスを語る」という講座があったので、聴きに行ってきた。講師は上念省三先生だ。

早めに行って、カフェでランチを食べて図書室の本もみたいと思っていたのに、案の定、出掛けにモタモタして、到着したのは始まる直前。
それでも上念先生のお話は楽しかった。
ダンスの始まり~モダンダンス~ポストモダン~コンテンポラリーに移行していく時代背景や世界の主要ダンサーのことなど、DVDなどを交えてわかりやすく説明してくださる。

コンテンポラリーダンスの日本における変遷や、劇団態変や土方巽の言葉に触れながらの不自由であることのゆたかさについてや、モモクロのライブ映像を観ながらの必死さがもたらす感動についてなど、どれも興味深く聴かせてもらう。
モダンが全盛になるとそれから逸脱しようとする力としてポストモダンが現れ、またそれが主流になってくるとそれへの反発からコンテンポラリーが生まれという、亜流が正統になりそれがまた変化して枝分かれし多様化していく構図は、他の文化や芸術にも当てはまることなのだなと思ったり。

講座が始まる前、上念先生とばったり廊下で出会いご挨拶する。
ヤザキさんを通して私のことを知っていてくださったのかと思っていたのだけど、それだけではなく、芝居を始める前に私が現代詩を書いて投稿していた雑誌の編集者でいらしたということを知る。20年以上も前のことで、もうびっくり。
「ことばから動きをイメージする」「動きから言葉をイメージする」
そういったことも、やってみたいなあと思っていたので、そのお話も少しさせてもらったりした。

写真はネットから探してきた京都芸術センターの一枚。外観の写真はよく知られているけど、これは私の好きな廊下を映したものです。




身体と心ともうひとつのもの

2012-07-19 | Weblog
子供のころから継続して見る夢に、「水の中を飛ぶ夢」がある。

夢の中の私は、何かから逃げているというわけではなく、何かを追いかけているというわけでもなく、でもかなりのスピードで、上昇したり下降したりしながら飛んでいる。電信柱や街路樹やビルも建っている。でもなぜか人影はない。そしてそこは確かに水の中なのだ。水の中なのに、泳ぐのではなく飛んでいる。
子供のころは頻繁に見ていて、大人になってからは少なくなったが、それでもたまに見る。
目覚めた後は、とても懐かしい気持ちになっている。

この間、八咲舞遊館でのヨガのレッスンの終盤、床に横たわって目を閉じゆらゆらしていた時、その夢の感覚がふと甦った。
それは笑美ちゃんの「沈んでいく感じを味わって…」という声を聴いていた時だ。本当に水の流れのようなものがやってきて、その流れに乗るような感じで、身体がすーっと下に下に引き込まれていって、あ、あの夢と一緒だ、と思ったのだ。

敬愛する今は亡き心理学者の河合隼雄氏は、著書の中で、「アニマーたましいー」という言葉をよく使っていた。氏によると、人間存在を身体と心とに割り切って考えた場合、どうしてもそこに取り残されるものがある、それがたましいなのだそうだ。
で、キリスト教伝道師が来日した時、日本人がそのアニマという言葉を聞き違えて、在り間(ありま)ととらえ、その在り間というとらえ方もまた素晴らしいと書いている。
つまり、存在するものとものとの間にある目にみえないもの。ものが普通に存在するような意味では存在しないもの、それがたましいであると言うのだ。

ものとものの間にある、人と人の間にある、時と時の間にある目にみえないもの。
ものごとを割り切って考えようとすると、消えてしまうもの。
でも、ないもの、見えないものを信じる力が、現実を生き抜く力にも通じると、私は思う。

夢に中で空を飛んでいるとき、どういう気持ちだったのか、よく思い出せない。
楽しかったり、怖かったり、不安だったり、その時々の状況で違っていたのかもしれないし、
そういうものからは解放された「素の私」だったのかもしれない。
















身体と心ともうひとつのもの

2012-07-19 | Weblog
子供のころから継続して見る夢に、「水の中を飛ぶ夢」がある。

夢の中の私は、何かから逃げているというわけではなく、何かを追いかけているというわけでもなく、でもかなりのスピードで、上昇したり下降したりしながら飛んでいる。電信柱や街路樹やビルも建っている。でもなぜか人影はない。そしてそこは確かに水の中なのだ。水の中なのに、泳ぐのではなく飛んでいる。
子供のころは頻繁に見ていて、大人になってからは少なくなったが、それでもたまに見る。
目覚めた後は、とても懐かしい気持ちになっている。

この間、八咲舞遊館でのヨガのレッスンの終盤、床に横たわって目を閉じゆらゆらしていた時、その夢の感覚がふと甦った。
それは笑美ちゃんの「沈んでいく感じを味わって…」という声を聴いていた時だ。本当に水の流れのようなものがやってきて、その流れに乗るような感じで、身体がすーっと下に下に引き込まれていって、あ、あの夢と一緒だ、と思ったのだ。

敬愛する今は亡き心理学者の河合隼雄氏は、著書の中で、「アニマーたましいー」という言葉をよく使っていた。氏によると、人間存在を身体と心とに割り切って考えた場合、どうしてもそこに取り残されるものがある、それがたましいなのだそうだ。
で、キリスト教伝道師が来日した時、日本人がそのアニマという言葉を聞き違えて、在り間(ありま)ととらえ、その在り間というとらえ方もまた素晴らしいと書いている。
つまり、存在するものとものとの間にある目にみえないもの。ものが普通に存在するような意味では存在しないもの、それがたましいであると言うのだ。

ものとものの間にある、人と人の間にある、時と時の間にある目にみえないもの。
ものごとを割り切って考えようとすると、消えてしまうもの。
でも、ないもの、見えないものを信じる力が、現実を生き抜く力にも通じると、私は思う。

夢に中で空を飛んでいるとき、どういう気持ちだったのか、よく思い出せない。
楽しかったり、怖かったり、不安だったり、その時々の状況で違っていたのかもしれないし、
そういうものからは解放された「素の私」だったのかもしれない。
















ドラマシティでヤザキさんのソロを観た

2012-07-11 | Weblog
昨日は、ヤザキさんやみーちゃんが先生をしているスタジオポイントのダンスコンサートを観に行く。場所はドラマシティ。こういうところだと生徒さんたちも力が入るだろうな。

今年は私も少しダンスのことがわかってきたので、去年よりもちゃんと鑑賞できた。
先生陣を中心に、ジャズありモダンありヒップホップありコンテンポラリーありクラシックありと、素晴らしいダンスのアラカルト。フィナーレには200人くらいの生徒さんや先生たちがチェアガール姿で勢揃いして圧巻。とても楽しかった。

みーちゃんの踊りは確かでぶれない。エネルギッシュでいて観る人を温かく包み込む優しさがある。
みーちゃんみーちゃんと、モクレンの探偵での役柄の延長で愛猫みたいに呼ばせてもらっているけど、あらためて鈴木みかこちゃんは素晴らしいダンサーさんだと思った。

実はみーちゃんのダンスと私の詩をコラボした作品を発表したいと思っていて、最近はそのことを考えながらダンスを観ている。
ダンスには言葉がいらない。ダンスそのものが言葉だ。確かに。
だからダンスが言葉の内容や意味を説明するのではなく、ダンスと言葉が拮抗して立ち上がってくるようなものにしたいなと思う。
7月21日から京都芸術センターで始まる「ダンスを語る」という企画にも参加する予定だ。

そして昨日、久しぶりに観たヤザキさんのソロダンス。
「ゆだねるきもち」といううタイトル通り、石を投げいれた池に静かに波紋が拡がっていくように、身体が行きたい方向になびいていく。あがきもせずもがきもせず批判もせず同調もせず、なすがままに。身体が求める方向を探りながら導かれるままに身を任せる。
あの動きには言葉も音楽も華やかな照明も要らない。しみじみと感動してしまった。

でも、もし、と考えてみる。
もし、静寂のなかに、淡々とした声があの動きとともに流れてきたらどうだろうと。
そしてしの内容がぜんぜん関係ないものにみえて、ふと一点で繋がったら、そしてその繋がったものが自分の中の何かを刺激したら…。

私なら泣いてしまうかもしれない。




別役実の「部屋」

2012-07-07 | Weblog
20年ほど前、戯曲を書き始めたころに好きだったのが、寺山修司と別役実だった。

当時書いていた現代詩が縁で音楽業界の人と知り合い、その紹介で作詞の仕事を始めて、ミュージカルのなかの歌も書き、その稽古に行った劇団の稽古場で文化庁の戯曲賞のことを知り、戯曲ってなんだと思いつつ作品を書いて応募してみたら賞をいただき、と、なし崩し的に私は演劇の世界に足を突っこんだ。
芝居のことは何も知らず、古典的な戯曲はさっぱりわからず、野田秀樹もつかこうへいも面白くなかった。でも寺山と別役は現代詩の延長線上で理解できた。

このしたやみ公演・別役実作品「部屋」を西陣ファクトリーで観た。

別役の世界は不条理で、観る人を煙に巻き、言葉のわざで現実を変えてしまう。
人間関係は食い違うやり取りの中でいつのまにかねじれてしまい、これって何が真実?と考えてしまうのだ。

人それぞれの記憶や思い出は、それぞれの心の中で都合のいいように形を変えていく。
受け入れることのできない現実があったとすると、人はそれを受け入れるために事実を脚色をして、なんとか自分の心の形にあわせようとする。そしてそれをいつのまにか自分のなかの真実として置き換えている。「物語の勝利」。私は自分が書く時いつもそのことを考える。残しておきたい大切なことは、物語のなかにこそある。

時間と時間の境目、現実と虚構の境目を、やすやすと超えてしまえる物語が私は好きだし、そういうものを書きたいといつも思う。

このしたやみの「部屋」は、とてもよかった。
広田さんは壊れそうでいて堂々ともしている。抑えた演技と表情が美しい。最後のシーンは泣けてしまった。二口さんは飄々としていてそれでいてあたふたとしている。おかしくもあり哀くもある。

こういう小さな空間で、素敵な役者さんが演じる静かなお芝居を観るのが、本当に私は好きだ。
古い建物の匂いも、途中で降りだした雨の音も、「部屋」の雰囲気を彩っていた。
久しぶりに別役作品を観て、いろいろなことを思い、自分ももっと物語を書きたいな、書かなければと思った。


雨といえば、春に裸ん坊だった木が、このところの雨の恩恵をうけてたくさん葉っぱを付けた。
もっともっと元気になあれ。













ヨガとパッションフルーツ

2012-07-05 | Weblog
体が硬い人にも向くという「ハタヨーガ」。本を買って一人でやっていた。
そんな時、ダンサーのヤザキさんの開いたダンススタジオ八咲舞遊館に、ヨガのクラスもあると知って、週一回、通うことに。
これまで運動とは無縁の生活をしてきた私。汗をかくことも新鮮。

一人でやっていると、呼吸法ももうひとつわからないし、私のような怠惰な人間はしんどくなるとすぐにやめてしまうのだけど、教室だと休ませてもらえない。
最初は、太陽礼拝のポーズを一回しただけでヘタっていたのに、連続三回やってもぜんぜん大丈夫になってきた。
先週からは、ヨガからダンスへという感じで、ダンスの基礎的な動きも教えてもらっている。
からだの部分部分を意識して動かしていると、どの筋肉がどうやった時にどうなるかが自分でもわかるようになってくる。緊張させた筋肉をリラックスさせる方法も教えてもらう。

通いだしてまだ一か月と少しだけど、運動の効果って、すごいなあとつくづく思う。
まず肩が凝らなくなった。体も柔らかくなってきたし、筋力もついてきた。わき腹や背中に知らない間についてきていたムダ肉が知らない間になくなっている。
運動音痴なので、教えてもらった動きがすんなりとできなかったりもするけど、家で何度も繰り返しやっていると出来てくる。出来てくるとうれしくてそればっかりやっている。
子供の頃、フラフープやまりつきが大好きで、ひとりで黙々と家の前の空き地でやりつづけていたことを思い出す。地味な達成感。

地味といえば、パッションフルーツ。
みかけは地味だが、甘くて酸っぱくてプチプチしていて、ほんとうにおいしいのだ。
今年の夏はスーパーでもデパートでも専門店でも見かけなくて、
ネット通販で買おうかと思っていたら、思いがけなく沖縄の方からいただいた。
誰にもあげないで独り占め。
感動です。


























http://www.arrowdancefield.com/